最初から最後まで女は泣きっ放し!
何でもすることを表現して歩けばいい。
何でもすることを創造すればいいんだ。
題名 - 最初から最後まで女は泣きっ放し!
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逆もある。
そりゃ、もちろんある。
男の美意識ってもんが。
好戦的で血気盛んな男は、戦ってなんぼ、という具合で、鉄砲玉のように出たっきりのなしのつぶてと来たもんだ。
女には黙って留守をさせた。
男は戦うことで、女に相談なんかはしない。
いつも自分ひとりで決めるんだ。
と言うか、カーッと一気に頭に血を上らせて、正気は失い、やにわに戦闘に突入し、
人を殺(あや)めたり、己の命を散らしたりして、女を困らせ尻拭いをさせて悲しませてばかりだ。
最後に泣くのはいつも女だ。
いや、最初から最後まで女は泣きっ放しなのだ。
いや、男女問わず、人間は人を傷付けるものだという見方も一方にはある。
我らは人を傷付ける専門家だったという見方だ。
会社や社会には、理不尽なことだが、消極的に又は積極的に人を傷付けようとする人達があまた存在する。
誰の何の利益にもならないのに、不条理の業火の渦を撒き散らす人間が。
結局、究極的には、彼らが居るような会社や社会を選択し、働いたり、
そこに住んだりしている我らの自己責任ということになるんだろうけど、自己責任とは本当にシビアで厳しいものである。
で、自分の責任なんだから、自分で自分のことを面倒みるしかない、という発想に至ることとなる。
でも、我らは、意志が弱くて決断力も行動力もないし、おまけに頭も悪いと来てるから、この会社やこの地域に居続けることとなる。
で、思わず愚痴りたいとなれば、究極的には、「会社を辞めたい」とか、「どこか遠くへ行きたい」となるが、
なかなか決断できない願望を口走ること、なんと哀れかな。
で、そんなこと愚痴ったところで、「辞めたきゃ辞めれば」、「消えたきゃ消えれば」と、冷たく突き放されることになる。
それで、我らは愚痴らずに、自分の腹の中に不満を溜め込み、自分自身で消化するようになるのだ。
愚痴っていいなら、みっともないけど、我らは愚痴ってみたいのだ。
愚痴ってる我らを受け入れてくれるなら、是非そうしてみたい。
と、そう思う。
サラリーマンよ、あんた、ゼネラリスト(スペシャリストの対義語)っぽくなってるつもりで居るが、
そんな会社のゼネラリストになったところで、何の価値もないってことぐらいは知ってるんだろ。
我らはやっぱり、何かの専門家でなきゃ生きてる価値がないんだってことも、薄々感じてるんだろ。
で、我らが、今現在この会社に居続けているという現実があるのなら、自分の専門性もこの会社にまつわるものであることが、
限られた人生の有効利用であることも知ってるんでしょ。
で、考えた。
自分は果たして何の専門家なんだろうかと。
サラリーマンか?
いや、そんなものは専門家とは言わない。
サラリーマンなんてもんは、何の価値もない。
己にとって何の興味もない無価値なものに、時間と労力をさくのがサラリーマンの仕事なんだから、
サラリーマンの専門家だって言い張ったところで、それはやはり、自分的には何の価値も生み出さない無意味なものとなるのだ。
で、考える。
サラリーマンは、自分の嫌いなことでも、他人の忌み嫌うことでも、何でもやる専門家だ、と。
これならいける。
世の中も、ただのサラリーマンを、りっぱな専門家に位置づけられるような、画期的なマジック的発想を待ち望んで来た筈だ。
でも、東大法学部をはじめ、あまたの秀才がサラリーマンにはなって来たけど、ピーターの法則ばりに、
みんなは一様に無能な人間へと化け、うんともすんとも言わなくなってしまう。
因みに、ピーターの法則とは、みんな等しく、己の能力の限界にまで出世し尽くしたら、
その位置にとどまって無能力者へと変身し、働かなくなるという法則のことだ。
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サラリーマンだって、表現することは可能である。
そんな才能を活かして生きるも、蓋をして日常に埋もれるも、我らの勝手だろう。
我らには画家の才能は必要ない。
画家の才能が無いからサラリーマンをやっている訳だ。
そう、もともと生まれた時から、そんな才能は備わってない。
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サラリーマンは、無能力が上に備わった、何でもするということを能力とすればいい。
何でもすることを表現して歩けばいい。
何でもすることを創造すればいいんだ。
そして我らブロガーは、情けないサラリーマンだって、りっぱな専門家なんだぞって表現すればいいんだ。
我ら無能力者は、表現するという才能こそ発揮せよ。