英語教育(英語が絶対に必要な本当の理由)
教師が英語を教えない、いやそれどころか、邪魔をするので有れば、自らで習得するまでです。自らの代で実現出来そうにもなければ、次代を担う子供だけには、どのようなことが有ろうとも、習得させておくべきです。
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どうでもいいことに、時間と労力と、人生を掛けるくらいなら もっと価値辞典を!
再び、総合学習、ゆとり教育で取り上げられたゴミ問題の続きです。
「全世界的な環境問題を考えなければ、ゴミ問題は解決しない。」
「そのためには、国際理解をする必要があり、そして、英語を習得する必要がある。」
と、世界のことを考えるのなら、国際理解をする必要があり、そのためには英語を習得しなければならないという、お決まりのパターンが、みんなの頭の中には収納されていて、そしてそれが、あたかも当然のように受け取られ、何の違和感も無く語られるのです。
英語を何故習得するのかについては、周りが皆しているから、とか、強制されているから、などの受け身的理由や、入試に有利、就職に有利などの必要性の他、国際化の進展により外国人との接点が増えたことや、事実上の世界標準語、ビジネス語であり、国際機関のほとんどが英語を公用語にしていること、インターネット上の情報のほとんどが英語であることから、日本語だけで遣り取りする内は、情報化社会上にあるもののほとんどが手に入らないこと、視野を広げ自分の人生を楽しむため、海外旅行に役立てるため、純粋に趣味や教養、学問、または憧れとして、また、会社で義務付けられていたり、昇進に必要であったり、外国の会社に就職するため、などのように様々な理由が存在します。
これだけ英語を習得しなければならない理由が並ぶと、「英語は苦手」とか、「いくら遣っても覚えられない」などの言い訳をする段階ではないように思えて来ますが、「国際理解なんかどうでも良い」、「英語なんて遣りたい人が遣れば良い、英語が出来なくても自分は現に生きている」と、開き直るのも自由です。
英語の隆盛は、英米の歴史的国力の現れであって、外国語は英語だけではないこと、中学高校での必修科目である必要はないこと、選択自由にしておいて、他に遣りたいことをすれば良いなどの、必要としない理由も様々存在します。
海外へ行くとよく聞く話、「この国では、自国語と英語の両方を話せるが、ほとんどの人は、一度も海外へは行かずに一生を終える」と。
当然の如く、彼らは外国に関する知識などを持ち合わせず、このことは、英語を話せることイコール、国際理解を深めることでは無いことを意味します。
英語を習得すれば国際化が出来、従って、国際理解も成し遂げることが出来るなど、人々は、根拠の無い無責任な風説に、煽り立てられ惑わされ、うろたえているのではないでしょうか。
国際理解に英語は必要であるというのは、嘘であり、幻想で幻影であるにも拘わらず、何度も何度も繰り返し英語習得へと我々は駆り立てられ、そして何度も何度も敗北しては去って行く、その姿は謂わば、ほとんど病気の英語脅迫症で、英語を難解で高等な、そして手出し不可能な特別なものへと昇華させているのです。
ふと目を閉じると、学生時代に英語を教えて貰った、先生方の顔が浮かんで来ます。 「ここは、重要」、「ここは、よく試験に出る」などと、口を開けば言っていたことを思い出しますし、何よりも強烈に印象に残っているのは、「君達の半分は切り捨てて授業を行う、付いて来られない者は置いて行く」との言葉。 このように露骨な言葉を吐く人は、珍しいとしても、英語の先生なんて似たり寄ったりで、彼らのような「サラリーマン教師」に何年間も、英語を教えて貰っていたのだな、と気付き、認識し直すこと頻(しき)りなのです。
教師という言葉を、図らずも使いましたが、教師と言ってしまえば、家庭教師、専門学校の教師、茶道、花道教室の先生なども含まれてしまいますので、ここでは、常勤職員として採用された教員を意味する、教諭と表す方が正確なのでしょうが、ここは、先生、教師、教諭などの用法の違いをあまり気にせずにおきます。
さて、教諭も組織に雇われている点においては、サラリーマンには違いないのですが、世間で言われている「サラリーマン教師」とは、そのようなものではなくて、「お金の臭いがしない、そして計算高さを感じさせない、純粋な心の持ち主で、清廉誠実に奉仕する聖職者」では無いことを意味するのです。
教諭には、教育の仕事に対して、誇りと自信を持ち、そして使命感や熱意を感じられなければ、世間は許さない、と言うことなのです。
批判側の世間にしても、誇りや自信、使命感や熱意を持たずに仕事をしているのに、教育者にはそれらを求め、「自分達は良いが、教諭には無いとダメだ」と言っているのです。
世間とは、このような身勝手な見方を平気でするものなので、まともに相手にする必要は無い、と言えば無いのですが。
子供に教育を施す特別な仕事をしている人は、誇りや自信、使命感や熱意が必要である、との理屈からそう言っているのでしょうが、ではその裏を返せば、子供が口にする食品業、子供が利用する交通機関、子供を託すサービス業などは、誇りも自信も使命感も熱意も、無くても良いとの理屈なのでしょうか。
「いや、必要だと思う」と、たぶんここで言葉を翻すことなのでしょう。
「誇りや自信、使命感や熱意を持て」という言葉は、見事に自分へ跳ね返って来ていること、そして、実は、自分への問い掛けであったことを、お分りになるでしょうか。
まあ、何れにせよ、少なくとも、彼らは英語を教えるプロには違いがありません。
だのに、未(いま)だに自分は英語が喋られない、英語が聞き取れない、英語が読めない、英語が書けない、総じて、英語が使えない。
これらは、ひとえに自分の無能力や努力不足から、来ていることなのでしょうか。 それとも、文部関係者達の知恵が足りなかったのでしょうか、それとも人材が不足していたのでしょうか、それともシステムが悪かったのでしょうか。
| 先生: |
「当たり前だ、端(はな)から英会話が出来るような英語は、お前には教えていない。」 |
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| 学生: |
「やっぱり、そうだったのですか。薄薄そうじゃないかと思っていたんです。」 |
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| 先生: |
「お前には、受験のための英語、受験のためだけの英語を教えて来たんだ。喋れないのが当然なのだ。」 |
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| 学生: |
「誰がそんなこと頼んだんですか。自分は使える英語を習いたかったのに。」 |
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| 先生: |
「よく言うよ。では、お前は、音楽だとか芸術など、受験に関係の無い授業に対して、どのような姿勢で臨んで来たと言うのだ。全然やる気が無かったじゃないか。英語にしても、リスニングやヒアリングには、受験とは関係が無いと言って、力を抜いていたじゃないか。誰からも、直接的には頼まれてはいないが、文部科学省も、教育委員会も、校長も、教師も、PTAも、親も、マスコミも、企業も、社会全体も、皆が暗にそう望んでいることを、私はしただけだ。責任転嫁をするんじゃない。お前が、努力をしなかっただけじゃないか。」 |
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| 学生: |
「いや違う。勝手に人の気持ちを斟酌して貰っては困ります。それらは、先生方が、型通りの難解で退屈な英語教育を、強制的に何度も何度も繰り返し吹き込んで、我々を思考停止に陥らせ、英語嫌いにした結果じゃないですか。・・・。・・・チキショー、訴えてやる。あなたに長年英語を教えて貰ったが、自分は未だに英話が使えない。あなたの教え方が悪かったんだ。」 |
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と、言ってしまっても、「英会話が出来るような英語は、お前には教えていない」と、開き直られてしまっては、致し方ありませんね。 |
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| 学生: |
「それじゃー、英会話が出来ると誤認させた、学校や自治体、いや国を訴えてやる。いや待てよ。今更、恨み節を言っても、始まらないか。そんなことをする、時間の方が勿体無い。」 |
日本語を教わった時のことを思い起こすと、小学校に入った途端に、難しい文法などを教えられた記憶なんて有りません。
確か、「さいた さいた おはながさいた」、「さくら さくら おかのうえ」を、唱和することで始まったよな。 それなのに、英語の場合は、文法Grammar、構成Composition、読本Readerと複雑に分けられていて、さながら、英語に興味が持てないかのように、英語が分からないかのように、英会話が出来ないかのように、そのように仕組まれていたんじゃないだろうかと、疑ってしまうのです。 難解に分割されていたのは、中学の頃なのか、高校の頃なのか、今となっては忘れてしまいましたが、何れにせよ、日本語の場合は、初っ端から主語とか動詞、カ変型がどうしたなどと、取っ付きにくいことを教えられた憶えが無いのです。
何も知らなかった学生時代とは違い、今は、英語の授業の背後に潜むものを詳(つまび)らかにする能力を備えることが出来、それを以ってすれば、読み書き会話が、出来るように教えていた日本語とは違い、明らかに、英語の場合は、読み書き会話が出来ないように教えていたな、という意図を読み取ることが出来るのです。
このように、英語という言語を、受験用に、スクラップしてビルドすれば、日常的には何の役にも立たない、見事なまでの木偶の坊に、作為的に作り上げることが出来てしまうのですね。
英語の授業は、多くの文部関係者が携わって出来たのでしょうが、何をどのように弄(いじ)くれば、このようになるのだろうかと、その作為に要する労苦に感心すると共に、彼ら全員が、生徒に良かれと思って行ったことであるのなら、何たる様だろうか、と思ったりもするのです。
ひとりの人間が、失敗してこうなる訳が無く、ひとりの失敗×ひとりの失敗×ひとりの失敗・・・と、可也の天文学的な確立の失敗を見事にしてしまっているからです。
と言うことは、あっ、そうか。 やっと、すべてが分かりました。 やはり失敗では無くて、意図的、恣意的に、読み書き会話が出来ないような、英語授業にしていたのですね。
失敗では無く、ひとりの仕業×ひとりの仕業×ひとりの仕業・・・と、100%に近い完成度で、英語をダメにする破壊的授業を作り上げていたのですね。
読み書き会話に何の貢献もしない英語教育を、失敗作だと思っていたのが間違いであって、彼らにとっては成功作だったのです。
そうとも知らず、とんでもない勘違いをしていたものです。
江戸時代の教育は、民間の教育機関である寺子屋で行われ、それこそ純粋な教育を目的としていたことなのでしょうが、明治時代に入り、国家によって計画、実行され、そして、公務員によって運営されるようになってからは、作為が入り込むようになり、為政者の描く国民作りのための教育となってしまったようです。
国家は、国民に対して、公立小中学校の整備を図り、教育を受けられる機会を平等に与えたと同時に、国家の意図することを忠実に行う、均質な人間作りも行って来たのです。
国家の意思は、日本国民らしい人間を形成するために、教育を行うことであって、まず、忠実に納税をする人間、そして、真面目に働く人間を作ることに有ります。
高々と掲げ上げられた教育の理念には、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする理想を実現するためには、その担い手である個人の人格形成を目指し、そして心身ともに健康な人間の育成を期して行われ、と有り、将来の世界全体の人類社会を担うべき世代を育てる、優れて高尚な営みで、日本一国だけに通用する人間には止まらず、国際人というべきものを育て上げることが必要なのです。
以上2つの違いが、お分りになるでしょうか。
建前である国家の意思は、国際人作りであり、本音の国家の意思は、国家に忠実な人間作りであることを。
英語習得が国際人を作ると、薄っぺらには言えてしまえるのでしょうが、労働と納税をするためだけの、受験のためだけの、英語教育を行っている位ですから、国際人などを作る気が無いことが分かります。
国際人作りとは、口で言うだけであって、実際は、意味も知らずに五月蠅(うるさ)く、相互理解、国際交流、などと叫ぶ輩を黙らすためだけの、パフォーマンスであり、建前であることも分かります。
教育の基本的、本来的な目的の、礼儀や道徳などは、戦前までの話であって、今となっては真面目に働き、そして確実に納税をする人間作りに、よくある何の意味も無いスローガンを掲げて、専念しているのが本音なのです。
教育基本法の第一条の、教育の目的をよく見ると、本音を垣間見ることが出来ます。 そこには、「勤労と責任を重んじ」る人間作り、との表記が有り、真面目に勤労し、確実に納税責任を果たす人間作りが、教育の目的だと分かります。
教育が済めば直ぐ様、人々を能力別に振り分けて、会社や工場へ送り込み、そして効率良く勤労させ税金を納めさせるのです。 このような中央集権的で、巨大なお金儲けのシステムが、教育と言えるのです。
このように見れば、国家もひとつの会社の経営と、何ら変わる所が無く、効率的な経営を進めれば進める程、教育はそのようになってしまうのでしょう。
効率化を進める過程では、人間振り分け法として、偏差値を考案し、偏差値や学歴で人間を測るように世間を仕向けて、偏差値至上社会、学歴至上社会を作り上げました。
そうすることで、よりお金が儲かる国家経営が可能となるからです。
失敗した時の準備をするのも、また、国家経営者には要求されることでしょう。
会社経営に失敗した時の備えとしては、それ以後の生活や再起のための財産を、保全しておくものですが、国家経営に失敗した時には、国内にお金を残しておいても仕方がありません。
失敗したと同時に、それらは大暴落し、紙切れになってしまうからです。
お金は国外に貯めておくこと、そして、いつでも逃亡出来るように準備しておくこと、もしくは、大暴落に耐えられるだけの大金を、国内に蓄積しておくことが、肝要となるのです。
彼らの、鋭い嗅覚に基づく行動を、細かく観察して見ると、日本がどのような状況に置かれて居るのかが、読み取れて来ます。
例えば、失敗時の準備は、自分のためだけであって、国民のためには、何の準備も用意しないし、する気も無い、という風にです。
日本の個人資産は1,400兆円であると、よく言われますので、この数字は、ご存知であるかとは思いますが、同じ様によく言われる、もうひとつの数字、この数字は、日々変動していますので覚える程のものではありませんが、今時珍しく、右肩上がりの曲線を描いています。
それは、国と地方の借金残高であり、2003年度末では、約693兆円の見込み、この他に、郵便貯金などを財源とした財政投融資事業の借金残が、約400兆円有ります。
財政投融資の何割かは国債購入に回っていますから、その分を差し引くとしても、国民に対する国と地方の借金は、1,000兆円を超えることになります。
1980年代初頭に、借金残高が100兆円を超えたことで、財政破綻の危機と叫ばれる大騒ぎが起こり、国鉄が民営化されたことを思い起こすと、1,000兆円が如何に大きな額であるかが、分かって来ます。
因みに、1982年度の日本のGDP(国内総生産)は、277兆6,536億円であり、2001年度のそれは、502兆6,183億円ですから、ちょうど倍になっている計算になり、1992年度のGDPは、483兆6,074億円、1982年度(277兆6,536億円)から、1992年度までのGDPの、ご覧のような増加は、日本経済の調子が良かった時のものですから、理解出来無いこともありませんが、平成大不況を間に挟む、1992年度(483兆6,074億円)と、2001年度(502兆6,183億円)の額に、殆んど変わりがないのには、理解し難いものが有ります。
1992年度の国と地方の借金が、301兆円だったことを考えると、301兆円から693兆円へと増えた大量の借金は、GDPを水脹れにしていたのだと、容易に想像でき、我々は、借金を食って生き長らえて来たのだな、と得心できるのです。
現在の借金も、危機的と言う人と、まだまだ大丈夫と言う人の両方居て、果たしてどうなのかは良くは分かりませんが、何れにせよ、後の世には答えが出ていることなのでしょう。
財政再建のために、直接、金持ちから税金をしこたま取る方法を選択すれば、すなわち、所得税や法人税を上げれば、賢い彼らは日本から逃げて行ってしまうことでしょう。
国外に逃げ出すほど知恵を付けた懸命な人間を、これ以上作ってしまっては、国家経営が成り立たないというもの。
会社が一番恐れることは、稼ぎ頭の優秀な人材が、会社から逃げ出すことであり、国家経営者が一番恐れることは、高額納税者が国外へ逃れて行ってしまうことなのです。
働かず、納税もしない人間が、国外へ逃亡することは、何ら恐れるものではありませんが、高額納税者に逃亡されるのは困ります。
いつでも脱出できるのは自分達だけで十分であって、これ以上、誰にも気付かれてしまってはいけないのです。
現に、国の財政状況を見ると、知恵を付けた金持ち達による、遣り逃げ態勢に入っているかのようにも見えて来そうです。
国がどうなろうが知ったことじゃない、国民からは搾り取れるだけ搾り取り、可能な限り蓄財する、との態勢が。
言葉の意味は曲解されていますが、「民はよらしむべし、知らしむべからず」の考え方、すなわち国民には、法に従わせ、為政者の悪巧みは、知られてはならない、ということ。
しかし、そのような生かさず殺さず搾取する国家経営は、もはやこれ以上無理かもしれない、万一国家が破綻してしまった場合のために、逃げ出す準備をしておいた方がいいな、ということも知られてはならないのです。
金持ち程、万一の場合を、身近なものと捉えることが出来、そのための準備をする能力に長けている訳で、リストラされて、「さあ困ったどうしようか」とか、退職したものの年金が貰えない、「さあ、何をして食い繋いでいこうか」などとは、決してならないのです。
所得税や法人税ではなく、消費税を16%にして、国家財政の明るい展望を開くのか、それとも、このまま借金を増やし続ける手法を取るのか、どちらにせよ、「出来るだけ搾り取る」というモノサシで判断されるものです。 消費税16%にする選択は、「長期間」の搾取を狙ったものであり、借金を増やし続ける選択は、どう見ても長くは持たないと、誰の目からも明らかですから、お金の「量」を狙った短期勝負となります。
それなら、金持ちには、中位の税金を納めて頂くこととして、負担を軽くして上げ、今後も末永く蓄財もして頂き、その代わり、彼らの賢い頭にて、国内の経済に貢献して貰い、その結果、相対的に税収が増えるという方が、万一の備えのない我々には、懸命で唯一の選択のように思うのですが。
消費税16%を受け入れるのも、致し方無し、何だかんだ文句は言いますが、我々は、払うしか方法を見出せない人間ばかり、国外へ脱出する術を知らない大多数は、結局、上昇した消費税を払う方が得策なのです。
消費税16%を受け入れなければ、金持ちは、破綻してしまった日本に、「さよなら」を言い、近視眼的であった我々は、この世に、「さよなら」を言うことになるのです。
彼らには、我々は、ジッと耐えて、国外脱出など決して考えないし、思い付きもしない愛すべき人に映っていることなのでしょう。 まったくその通りで、悔しい限りです。
消費税を16%にして、国家破綻を先延ばしにすることは、彼らにとっても、忍耐を要する、気の長い一種の賭けには違いありません。 人々が耐えられるか耐えられないか、というギリギリの状態の選択をすることは、これで搾取生活が終わるのか、それとも今後も続くのか、の分かれ道だからです。 国家が破綻せずとも、国民が破綻してしまっては、結果は同じであって、元も子も有りません。 金持ちは国外へ逃げ出し、貧乏人はジッと我慢をしている、そういう諸外国の例を見ても、果たして吉と出るか凶と出るか、微妙なところで判断がつかないのですが、ここは、とにかく先へ進んで、消費税を16%にしたとしましょう。
仮に、それが失敗したとしませんか。 「最悪の時は、外国へ脱出して、優雅に過ごす迄だ。」 「ここまでは、考えに考え抜いたシステムを、大事に育んで来たけれど、破綻してしまっては仕方が無い。」 「外国で、再び搾取システムを構築する、時間もコネもエネルギーも残ってはいないけれど、お金は国外にしっかりと溜め込んである。それを取り崩しながら、楽しく可笑しく暮らす迄だ。」
これらの発想も凄いが、彼らの実際の手口もまた凄いものです。 最初にお金をばら撒いておいて、国民には、施して貰うことを当然のことと認識させ、感謝の気持ちなどを持たせないように麻痺させ、そして、次から次へと出てくる不満や、口を開けて「もっとよこせ」と出て来る要求には、遠慮なくお金を投入します。 それらのお金は、税金から出しているだけであって、自分のお金じゃないこと、タダであることを認識させ、元々は自分達のお金であること、また、最終的には自らが負担しなければならない、借金であることは、認識させないようにします。 為政者などの賢い人間は、搾取するためだけに、有りとあらゆることを考え出し、そして実行に移して行きます。 国が面倒を見てくれる、そしてお金をくれる、そういう考え方を繰り返させれば、腑抜けになり、思考は停止し、退化し、機能不全に陥り、何ひとつ自分では決められない、行動も出来ない、環境が変わっても自らを変えられない、そういう人間へと、いとも簡単に仕上げることが出来るのです。 税金を食いものにしている人間の、自分を変えずに、周囲を変える遣り方には、思わず感心してしまいそうです。
こんなことが分かってしまうと、国なんか信用する方が、バカみたい。
「いや、国なんか信用する人間はバカだ」と、言い切っても良いのでしょう。 支配されている我々には、信用する人間を厳選し直す必要性が出て来たようです。
自らの価値で決断し行動している人間、彼らは、環境が変われば、自分も変えています。 環境に自分を合わせるんじゃなくて、自分の考え方を変えて、決断し、行動しています。
国じゃなく、為政者じゃなく、金持ちじゃない、そんな彼らなら信用出来そうな気がします。 そういう人間を、一刻も早く探し出し、食らい付いて、柔軟な思考を伝授して貰わなければ、下手をすれば、後に取り残されてしまって、大変な目に会いかねません。 そうなったら、堪ったものじゃありません。
歴史的には、お金を集められない国は、国の体を成さず、滅亡の道を辿ります。 2003年度の日本の一般会計予算は、81兆8千億円であるのに対して、税収は41兆8千億円、1990年度には86.8%あった税収比率は、51.1%へ急落し、残りの足りないお金は、借金などで賄うしか有りません。 世界史上最低の日本の税収比率に比べて、アメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、イタリアは、何れも8割以上を税収でカバーする優等生ぶりを示し、もはや、日本はお金を集めるシステム自体が働かず、機能不全に陥って、破綻してしまったと見ても良い位です。
そもそも、総合学習、ゆとり教育と言い出したのも、穿った見方をすれば、もはや、金太郎飴のような人間を作り続けても、お金を生み出すことは不可能であり、従って、自らの旨みも無くなって来たことに、起因しているのではないでしょうか。 仕事を与えられ、言われたことをするだけの人間じゃなくて、もっと、自律的に稼ぐことが出来る、自らで仕事を生み出し、国際競争でも勝ち残る柔軟な発想を持ち、言われないことでも自らで見付け出す能力のある、そういう人間を欲したのではないでしょうか。 しかし、総合学習やゆとり教育で生み出された、裁量の利く時間を利用して、英語を使えるようにまでは、なって貰っては困ります。 英語を使えるということは、海外へ行く可能性が有るということ、海外へ迄は、仮に行かないとしても、外国人と交流したり、外国人の考え方に触れたりする、可能性は高くなる訳で、そのことは、国外脱出を考えたり、国境のない柔軟な思考を手に入れてしまう恐れを、意味するのです。
英語が使えるかどうかよりは、国境のない柔軟な思考、すなわち日本の国に居ることに拘らない、自由な思考の取得、それこそが為政者にとっては、最も怖いことなのです。
それらの芽を早期に摘み取るには、英語の授業をズタズタにしておいて、英語を習得出来ないようにしておくことが、最良の策なのです。
我々が、そういう思考を逆手に取れば、例えどのような邪魔が入ろうとも、英語だけはマスターしておくこと、そういう選択肢が見えて来ます。 教師が教えない、いやそれどころか、邪魔立てをするのであれば、自らで習得するまでです。 自らの代で実現出来そうにもなければ、次代を担う子供だけには、どのようなことが有ろうとも、習得させておくべきです。 給料の7割は税金として持って行かれ、年金、医療制度は破綻している、そういう最悪の未来が予想できる親の責任としては、子供だけには、英語を習得させておくべきではないでしょうか。
余力が有れば、国境の無い自由な思考の取得のために、手助けをするというのが、一番良いのですが。 英語を習得させておいて、出来るだけ海外へ行かせるのです。 出来るだけ外国人と触れさせて、幸せは、国境で区切られるんじゃない、日本だけに有るんじゃない、発想を変えれば、何処に居たって掴めるものなんだ、という思考取得の手助けです。 現在の日本をよくよく見れば、英語習得の是非を問うている段階では無いように思えます。 そんな悠長な理由で、英語が必要だとか、必要でないとかの、論議をしている場合では無いのです。 自分や子供の、命に係わる問題です。
英語習得こそが、国境無き自由な発想を手に入れる近道であり、そうしなければ、自分の人生が自分でコントロール出来ないという、歯痒い事態を招くことになり、何をされても日本にしがみ付く惨めな人生が、保障されてしまうのです。
世の中は、賄賂、口利き、付け届け、談合などが蔓延(はびこ)り、理想を掲げた教育も、相手の痛みを理解出来ない子供達による、いじめ、不登校、引きこもり、学級崩壊、家庭内暴力、校内暴力、非行、援助交際など、社会問題となっている始末です。
これらひとつひとつの問題に関わって、人生を忙殺されれば、英語習得も、ただの社会問題のひとつに見えてしまい、永遠にそこに隠された謀略には、気が付かないことでしょう。
まとめとしては、「英語は遣りたい人だけ遣れば良い」と、気楽に、自己責任と個性重視を謳っても良いのですが、日本が破綻して住み難くなると仮定した場合には、国外へ逃げ出す思考が必要となり、日本には住めないと考えた場合には、日本語以外の、とりわけ多くの国で通用する、英語を習得する必要があるのです。
従って、「英語は必要か」との問いには、「日本が危なくなったら、脱出するために是非とも必要である」というのが、答えとなります。
日本から逃げ出す思考を手に入れるためには、必ずしも英語を必要とはしないのですが、英語を習得した方が、可能性が高いだろう、という話。
しかし、日本が、何世代にも渡って、住むことが出来ないような惨状に陥った場合には、可能性云々ではなくて、日本語を捨て、英語を得ることを、人は生まれ、そして死んで行く、という営みと同じ位、自然なこととして行なわなければ明日は無いのです。
己の努力不足や無能力から派生した、英語習得に関する思考は、止まるところを知らずに拡大し続け、全体的に穿ち過ぎた感も若干あります。
まったくの個人的な創作物として、ご理解頂ければ幸いであり、「考えすぎだ」との一言で片付けるのも、これまた自由です。
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