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人間の価値!人間の値打ちは何で決まるか?
人間の価値!
人間の値打ち!
どこぞの首相は、昨日言ったことと、今日言うことと、明日言うことが違ってる。
そこんとこを尋ねたら、「よーく聞いてください。
同じことを言ってるから」と、こちらの脳をグチャグチャにする。
いや違う。
あなたの脳がぐちゃぐちゃなんだよ。
もうこんな人とは、会話しない方が身のためだ。
首相ほど偉くないけど、世の中では偉い人との称号を得ている、まあまあ偉い人に、「いじめから逃れたいなら、学校の先生に相談しなさい」と言われた。
それを信用して学校の先生に相談したら、「お前が気持ち悪いからいじめられるんだろ」と、逆にいじめ殺されそうになった。
ことの顛末を、まあまあ偉い人に報告したら、「そら見たことか。学校の先生のレベルは下がってるんだ。普通の職種になり下がったんだよ。そんなやつに命の相談をするやつが居るか」と、真っ逆さまに落とされた。
教師が普通の職種に成り下がったという、その普通の職種とは、世の中に普通に存在する光景、普通に人間をいじめて、普通に人間を殺していく職種のことであろう。
また、どこぞの国の大統領は、声高らかに世界平和を唱えながら、どこぞの国へと攻め入って、お互いに憎しみ合って、殺し合う。
平和と幸福を切望する同じ人間が、さまざまな忌まわしい手段を用いて、まるで人間を虫けらのように情け容赦なく殺していく。
善意の塊のような人間が、極悪非道の限りを尽くすんだから、もう、人間は信用できない。
と、こうしてみんなは、どこか陰鬱な隠れ屋で密かに暮らすことにする。
こんな世の中でも、我らは真面目に生きなきゃいけないの?
脳みそがぐちゃぐちゃで、いったい何を考えてるのか訳が分からん、そんな人間たちが形成する、こんな世の中は、まるで我らひとりの人間の価値よりも低いんじゃないかと、そう思えてしまえて仕方がない。
いっその事、こちらから、こんなバカげた世の中に、おさらばでもするか。
「おさらば」と言っても死ぬ訳じゃない。
我らは世の中の常識に、自分のサイズを合わそうとして苦労してきた。
そして合わせられない者は、命も断ってきた。
でも、どうってことのない世の中だって分かってしまえば、こちらから世の中を捨ててしまえばいいんだから、気も楽ってもんだ。
そう、誰が何を言おうと気にすることはない。
世間がどんなにあなたを批判しようとも一切気にすることはない。
あなたは、生きるに値するからこの世の中に生まれて来た訳ではない。
簡単に言ってしまえば、何の断りもなく、両親が勝手にこの世にあなたを召還したから、しかたなく生まれて来ただけのことである。
親にしてみれば、欲しくて欲しくてしょうがなかった。
不妊治療をしてまでも、お前が欲しかった。
いろんな苦労の末に、ようやく授かったんだ。
天使なんだよ、お前は、って、言われるのかもしれない。
それとも、まだまだ遊びたかった。
だから、今はお前を欲しくなかったけど、弾みで出来てしまったんだ。
って、言うのかもしれない。
何れにせよ、両親が望むと望まずとに拘わらず、あなたの方は望まずに、この世に生れて来たのだ。
これは事実である。
これ以上でも、これ以下でもない。
経済の世界では、物の値打ちは需要と供給で決まる。
原価主義と言って、原材料の価格から製品価値を求めるやり方や、市場が決めてしまう完成品の価格から逆に原材料の価値を求めるという発想もある。
人間が物だとしたら、たぶん市場の値段からさまざまな原価を弾くんだろうけど、でも人間は人間であって物にあらず。
欲しいと望んだ場合は親にとって価値があり、望まない場合は親にとって価値がない。
とは、決してならない。
世の中がひっくり返っても決してそうはならないと、相場は既に決まってる。
たぶん、人間には、値打ちという概念が当てはまらない。
そうじゃなきゃ、この世の中で誰一人として、私のことを必要としていないという、この現状をどう理解すればいいのか、分からない。
私に対する需要がひとつもないという、この抑えようのない体の震えを、どう収めればいいのか、まったく分からない。
みんなから疎外され、「お前なんか死んじまえ」といじめられてる、この何とも恐ろしい学生生活を、どう過ごしたらいいのかまったくもって分からない。
私は、幼少のみぎり、顔はいまいち、頭は空っぽと来ていた。
でもまあ、同世代の友達も、生れ立てはもちろん顔はくしゃくしゃで頭は空っぽと、同じようだった。
だから「いまいち」と「くしゃくしゃ」で、まあまあいい勝負か、と思っていた。
でもしばらくすると、英語のビデオや音楽を聞かせる友達の親が現れて、中には英語教室へ通う者も出現しだした。
こちらはと言えば、裸足でそこら中を駆け回り、近所の人からはあの子ったら鼻を垂らしてる、と指摘された。
海に浮かんだビニールボールを拾い損ねて溺れた友達を救い、人命救助で表彰されるも、危ない遊びを一緒にしていた自分にとっては恐縮至極で、溺れさせたのは私のようなものでもあったという時代の話である。
いったい、この違いは何だ。
「いい子ちゃん」と「悪たれ」の違いはいったい何なんだ。
親の教育への関心度や絶対的情報量の違い、というのもあるだろうが、要は、お金持ちか貧乏人かの違いだったのか。
高学歴の家庭ほど、年収が高いと言われて、自然、お金持ちとは、教育への関心が高くて情報量もすごいと、そう決まったんだろうか。
お金持ちは高学歴と相場が決まったようだ。
そして、最新情報にも敏(さと)いと決まったようだ。
だったら、貧乏人は情報に疎(うと)くて学歴もないと決まりだね。
そう、決まった我らは、普通の情報を入手し、普通の学校へ通い、普通の会社へ勤め、わずかなお金を手にして死んで行くのだろう。
また、お金持ちは、学歴を手にし、首相や大統領という職を手にしたけれど、また同時にぐちゃぐちゃの脳みそをも手に入れて、そして死んで行く。
学校は私を欲した訳じゃない。
私が存在するから、ただ仕方なく受け入れてるだけである。
友達は私を必要とした訳じゃない。
必要としないから、その存在を拒絶しただけである。
会社は私を必要とした訳じゃない。
私が会社を求めたから、会社はただ仕方なく受け入れただけなのだ。
私の代わりなんて五万と居る。
普通の歯車の代わりは、普通の歯車で十分足りるのだ。
我らが神経をすり減らし、ビビってきた世間にしたって、気を使う程の値打はなかった。
じゃー、人間の値打ちは何で決まるかだが、どうやら、世間が我らを必要とするかどうかは関係ないみたいだから、値打ちという概念は人間を測るモノサシとは成り得ない。
強いて言えば、己が如何に生きるかが値打ちのようなものだろうか。
どうやら、世の中に迎合せず、独立独歩、自分らしい生き方を貫くあたりに、人間としての値打ちはあるらしい。
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