お金儲け・銀行の不良債権・借金地獄・金策
お金儲けに目の色を変え、お金の量の多さを追求し狂喜乱舞した結果、銀行の不良債権は増え続け、人々は借金地獄でのた打ち回り、金策に東奔西走する有り様です。
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お金儲けに目の色を変え、お金の量の多さを追求し、狂喜乱舞した結果、銀行の不良債権は増えに増え続け、人々は借金地獄でのた打ち回り、金策に東奔西走する有り様です。
「借りた金は返す。」
この言葉をいつ誰から聞いたか憶えていませんが、いつかの時点で誰かが教えてくれたのだと思います。
生まれたばかりの赤ん坊に、何も教えなければ、善も悪も、何の思慮分別もない大人になってしまうのと同じ理屈で、誰かが教えてくれなければ、知っている筈がありませんから。
教科書には、「借りたお金は返しましょう」とは載っていなかったように思うのですが、ごく当たり前のこととして、また、絶対に返さなければならないものとして、今では承知しております。
そして、それは脳や体の奥底に、あるいは、DNAに、とまでは少々大袈裟過ぎるかもしれませんが、それほどまでに、当たり前のこととして染み付いていたのです。
「染み付いていた」という過去形の表現になってしまったのは、バブル崩壊後のこの10年余を考えると、銀行の不良債権は一向に減らず・・・
詳しいことは、経済学者などにお任せするとしまして、不良債権とは、金を借りた人が返さないから生じるのだ、
と、これくらいのことなら素人にも分かるというものですが、すなわち、「借りた金は返す」が当たり前ではなくなってしまったかのように思われるからです。
もしかすると、「借りた金は、返さないのが当たり前になった」、そう言えるのかも知れません。
そもそも、資産価値が大暴落しようが、デフレが会社経営の足を引っ張ろうが、借りた行為自体には何の関係も無く、お金を返しさえすれば、その人の分の不良債権というものは、存在しない筈です。
返さないのなら、契約書に資産価値大暴落時や不況時には返さないと、現実にはそんなことあり得ないことですが、頼み込んで一条付け加えて貰えば良かったのに、と思ったりもするのですが、そのようなことは当然のことながら、してはいないのです。
まさか、永遠に自分の会社が繁栄し、日本経済や土地、株、給料、消費、何もかも上がり続ける、とでも思っていた訳ではあるまいし、たとえ思っていたとしても、借りた金はどのようなことがあっても、返すもんじゃなかったの。
そう教えて貰ってないのですか。
「場合によっては、返さなくても良い」、なんてことは、誰も言っていなかったように思うのですが。
お金を貸す立場を考えれば、苦しくなった場合、お金を返せなくなるような借り方をすること自体が甘いとも思うし、貸し手が、「もう誰にもお金は貸さない」なんて心境にもなろうっていうのも分かるのです。
貸し渋り?
まるで、貸さない方が悪いみたいな言い方ですね。
誰が貸し渋りにしたのですか。
って、返さない人が、しているんじゃないですか。
貸して返ってくるなら、誰も貸し渋りなんかしませんよね。
不良債権や不況や資産デフレなんか、関係ありませんよね。
優良債権も好況も資産インフレも関係ない。
借りたものを、返さないからです。
かつて我々はみんな、貸し手の立場を経験してるんだから、「借りたものは返せ」と素直にそう思うのです。
それは、お金だけに限らず、本であったり、傘であったりもします。
何の役にも立たない、ただ試験の点数を稼ぐだけの詰め込み教育なんかどうでも良いから、義務教育の期間中は、最低「借りた金は返す」、これだけさえ、徹底的に教えることが出来てさえいれば、今のような不良債権は無かったんじゃないの、とそう思うことがあります。
その場合の授業は、身銭を切ってお金の貸し借りを相互に実際にしてみて、リアルに何かを購入してみたりもするのです。
返済は月々幾らと唱った契約書も交わし、これもまた実際に返済して行くのです。
そうこうしているうちに、返済額は小遣いの何割でないと返せないとか、計画通り返せずに信用を失っていく者が出てくるとか、信用を失えば、どのようなことになるかなどを、実際に体験してみるのです。
重要なのは、全員が、貸し手と借り手の両方の立場を経験してみること。
互いの立場になって考え、理解することです。
このようにして、この人には幾らまで貸せば確実に返ってくるとか、お金を借りるとは、お金を貸すとはどういうことなのか等の経験値を積み上げる訳です。
実際は、そのような授業は無理としても、親や教師が、「借りた金は返す」ことを、子供に教えることが出来るように思うのですが、やっぱり従来どおりの、当たり前のことや常識は誰も教えなくても、みんな当たり前のように自然と会得するというやり方を採用されるのでしょうか。
そのようなことになれば、結果は現状のまま、借りた金は返すのが当たり前なのか、返さないのが当たり前なのかが、分からない混沌とした状態になると思うのです。
現実は、誰にも教えて貰っていないという逃げが、通用しないほど当たり前、と認識されていながら、その当たり前のことを実行していません。
しないのなら、「当たり前」という言葉を当てはめること自体、虚(むな)し過ぎる。
当たり前ではないのなら、昨今心配されているような、ゆとり教育、総合学習、学力低下なんていうのは、どうでも良いんじゃないでしょうか。
「大学卒業です」、「英語が喋れます」、はたまた、「自分の生き方を見付けました」、と偉そうに言われたところで、その人が借りた金を返さないのなら、どのような教育を受けていても同じじゃないか、と思えてしまうからです。
「もっと、ゆとりを持った教育を」、「いや、それでは学力が低下する」などの議論が盛んに行われていますが、どんな教育を受けても、借りた金を返さない人間を生み出すのなら、もう最後の手段、個人として取れる行動のひとつは拒絶です。
「そんな人とは付き合いたくない、どんなにすばらしい高等教育を受けていようが、口も利きたくない」ということです。
当たり前とかそうじゃないとか、偉いとか偉くないかより、単純に貸したものを返してくれる人と付き合いたい、そう思うだけです。
統計の数値に、「借りた金を返す率」って無いんですかね。
いろんな数字を国際比較をするくらいなら、この数値を競った方が、よっぽどみんなが幸せになれる方向だと思うのですが。
大人になると、「返さない人もいるんだ」とか「返さないのが正当化されるんだ」などと知らされる事例が多くあり過ぎて、今まで正義だと思っていた価値観は、もはや崩れ去っってしまったと、気付かされます。
この世の中は、「お金がすべて」、「お金は人生そのもの」、「お金のために我慢して働く」などなどと、金、金、金と五月蝿く言っている割には、その命そのもののお金を、返さない人がなんと多いことか。
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