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障害者は不幸か?

障害者は不幸か?彼らの言うことを鵜呑みにしていたら、障害が有ればそれだけで不幸な人生、不健康になればその時点で人生が終ると、そうなっていたに違いありません。


障害者は不幸か?


障害者は不幸?


お目出度に際し、「健康なお子さんだったらいいですね」と言われたら、「あっ、どうも、ありがとうございます」というのが普通でしょ。

気持ちがこもってない挨拶程度の言葉だからといって、「ウソつけ!そんなこと、これっぽっちも思ってないくせに」とは言いません。

そこはそれ、すかさず「ありがとうございます」と愛想笑いを浮かべて、そつなくその場をやり過ごすのが立派な大人というもの。




そんなウソにいちいち目くじらを立てていたら、この世から潤いが無くなってしまうというもの。

そんなもの本気で相手していたら、誠実気取った嘘つきばかりが幅を利かすこの日本では生きてはいけないのです。

そんな白々しさは社会では潤いであって、そういうまやかしこそ他人を安心させ、居心地を良くさせるのです。




そんなことは百も承知の筈なのに、「生まれて来る子供は、健康でも不健康でもどちらでもいい」などと変わり者気取り、「生まれて来た子供の、ありのままそのまま、有るがままを受け入れる」などと小心者は強がってみせました。

相手方は「ポッカーン」。

「なんて変な人。あんた変わってるよ」




「えっ、エッ、今なんて言いました。一体なんていうことを言うんですか。

あなたが変わってないだけじゃないですか。
あなたが平凡すぎるだけじゃないですか。

個性がなさすぎです。
我々はクローン人間じゃ無いんだから、金太郎飴じゃ無いんだから。」




さて、考えてください。

実際問題として、あなたのもとに障害を持った子供が産まれたとしませんか。
あなたは、その子を愛しますか?
愛しませんか?

「愛しません」て、そんなバカな、そんな訳ありませんよね、ねっ?




現実に不健康な子供を授かったにしても、「愛さないとは」絶対にならない。

健康だろうが不健康だろうが、障害が有ろうが無かろうが、我が子は愛しいに決まっているのです。

「健康な子供を願う」との言葉、こんなものは失礼この上なく、言わなくてもいい余計なことです。




「健康な子供が良かったけれど、仕方がないから不健康な子供でも愛するか」なんてことには、天地がひっくり返ってもなりません。

そんなこと言っちゃー絶対にダメ、思ってもダメ、子供に失礼と言うか、いや人類に対する冒涜(ぼうとく)、いや、本当に、そんなこと有ってはなりません。




健康な子供が生まれて欲しいところへ、障害を持ってしまった子供が生まれて来れますか?

一体どんな顔をして出て来ればいいのですか?
それとも、日陰に隠れてこそこそと生まれて来いとでも!
可愛い我が子に、そんなことをさせるのですか?

自らの存在までも否定してしまうような、人間としての尊厳までも捨て去ってしまうような、そんな卑屈で自虐的な子供に、なって欲しいとでもいうのですか?




そんなの、子供が余りにも可哀想すぎます、不憫すぎます。

そんな差別を、生まれて来たばかりの赤子に教える訳にはいきません。
そのような残酷な教育方針なんて有り得ません。子供は親の所有物じゃないのです。

「健康な子供を願う」とは、そこまで言っているのと同じなのですよ。
自覚が無いようなので、どうかこれからは自覚してくださいね。




あなたがもし、ぞんざいな扱いをされたら如何なさいますか?
もちろん、そんなの嫌でしょ!
無礼もいいところじゃないですか、ねっ!

子供もあなたと同じ、尊重されるべきりっぱな一個の人間です。




どうですか、「健康な子供を願う」なんて虚言(きょげん=うそ)、こんなもの軽々(けいけい)に口にしちゃいけませんね。

そう、我々は、そんな小さなことからコツコツと、改めていかなければならないのです。




「健康な子供を願うぐらい、何も考えず気軽に言ってもいいじゃないか」と、飽く迄も態度を改めないと、そう言われるそんな頑固なあなたには、ここで、セヴァン・スズキという方の言葉を贈ることに致しましょう。

たぶん、セヴァン・スズキって誰よ?
とお思いのことでしょう。

当方のような者が偉そうに言うのも何ですが、これがまた“なかなか”。




“なかなか”って何よ!?どんな人物よ!?って。

時は、1992年6月、ブラジルのリオ・デ・ジャネイロで開催された環境サミットでの出来事。

当時12歳の少女セヴァン・スズキは、環境サミット(環境と開発に関する国連会議)に集まった世界中の指導者を前にして、こう語ったのです。




--ここから----------------------------------------------------------


こんにちは、セヴァン・スズキです。
エコを代表してお話しします。

エコというのは、子供環境運動(エンヴァイロンメンタル・チルドレンズ・オーガニゼェーション)の略です。




カナダの12歳から13歳の子供たちの集まりで、今の世界を変えるために頑張っています。

あなたがた大人達にも、ぜひ生き方を変えて頂くようお願いするために、自分たちで費用を貯めて、カナダからブラジルまで1万キロの旅をして来ました。




今日の私の話には、ウラもオモテもありません。
なぜって、私が環境運動をしているのは、私自身の未来のため。

自分の未来を失うことは、選挙で負けたり、株で損したりするのとは訳が違うんですから。 




私がここに立って話をしているのは、未来に生きる子供達のためです。
世界中の飢えに苦しむ子供達のためです。
そして、もう行く所もなく、死に絶えようとしている無数の動物達のためです。 

太陽のもとに出るのが、私は恐い。
オゾン層に穴があいたから。

呼吸をすることさえ恐い。
空気にどんな毒が入っているかもしれないから。




父とよくバンクーバーで釣りをしたものです。
数年前に、体中ガンでおかされた魚に出会うまで。

そして今、動物や植物達が毎日のように絶滅していくのを、私達は耳にします。
それらは、もう永遠に戻っては来ないんです。 




私の世代には、夢があります。
いつか野生の動物達の群れや、たくさんの鳥や蝶が舞うジャングルを見ることです。

でも、私の子供達の世代は、もうそんな夢を持つことも出来なくなるのではないか?
あなたがたは、私ぐらいの年の時に、そんなことを心配したことがありますか。 




こんな大変なことが、ものすごい勢いで起こっているのに、私達人間ときたら、まるでまだまだ余裕があるようなのんきな顔をしています。

まだ子供の私には、この危機を救うのに何をしたらいいのかはっきり分かりません。




でも、あなたがた大人にも知って欲しいんです。
あなたがたもよい解決法なんて持っていないっていうことを。

オゾン層にあいた穴をどうやってふさぐのか、あなたは知らないでしょう。
死んだ川にどうやってサケを呼び戻すのか、あなたは知らないでしょう。
絶滅した動物をどうやって生きかえらせるのか、あなたは知らないでしょう。




そして、今や砂漠となってしまった場所にどうやって森を蘇(よみがえ)らせるのか、あなたは知らないでしょう。 

どうやって直すのか分からないものを、壊し続けるのはもう止めてください。




ここでは、あなたがたは政府とか企業とか団体とかの代表でしょう。
あるいは、報道関係者か政治家かもしれない。

でもほんとうは、あなたがたも誰かの母親であり、父親であり、姉妹であり、兄弟であり、おばであり、おじなんです。




そしてあなたがたの誰もが、誰かの子供なんです。

私はまだ子供ですが、ここにいる私達みんなが同じ大きな家族の一員であることを知っています。
そうです50億以上の人間からなる大家族。




いいえ、実は3千万種類の生物からなる大家族です。国境や各国の政府がどんなに私達を分け隔てようとしても、このことは変えようがありません。

私は子供ですが、みんながこの大家族の一員であり、ひとつの目標に向けて心をひとつにして行動しなければならないことを知っています。







私は怒っています。でも、自分を見失ってはいません。私は恐い。でも、自分の気持ちを世界中に伝えることを、私は恐れません。 

私の国での無駄使いは大変なものです。
買っては捨て、また買っては捨てています。

それでも物を浪費し続ける北の国々は、南の国々と富を分かち合おうとはしません。
物が有り余っているのに、私達は自分の富を、そのほんの少しでも手放すのが恐いんです。




カナダの私達は十分な食物と水と住まいを持つ恵まれた生活をしています。

時計、自転車、コンピューター、テレビ、私達の持っているものを数えあげたら何日もかかることでしょう。 




2日前ここブラジルで、家のないストリートチルドレンと出会い、私達はショックを受けました。ひとりの子供が私達にこう言いました。

「ぼくが金持ちだったらなぁ。もしそうなら、家のない子すべてに、食べ物と、着る物と、薬と、住む場所と、やさしさと愛情をあげるのに」




家も何もないひとりの子供が、分かち合うことを考えているというのに、すべてを持っている私達がこんなに欲が深いのは、一体どうしてなんでしょう。

これらの恵まれない子供達が、私と同じぐらいの年だということが、私の頭を離れません。どこに生れついたかによって、こんなにも人生が違ってしまう。

私がリオの貧民窟に住む子供のひとりだったかもしれないんです。

ソマリアの飢えた子供だったかも、中東の戦争で犠牲になるか、インドで【物乞い】をしてたかもしれないんです。




もし戦争のために使われているお金をぜんぶ、貧しさと環境問題を解決するために使えばこの地球はすばらしい星になるでしょう。

私はまだ子供だけどこのことを知っています。 




学校で、いや、幼稚園でさえ、あなたがた大人は私達に、世の中でどう振る舞うかを教えてくれます。

例えば、争いをしないこと、話し合いで解決すること、他人を尊重すること、ちらかしたら自分で片付けること、他の生き物を無闇に傷付けないこと、分かち合うこと、そして欲ばらないこと。 




ならば何故、あなたがたは、私達にするなということをしているんですか。

何故あなたがたがこうした会議に出席しているのか、どうか忘れないでください。
そして一体誰のためにやっているのか。

それはあなたがたの子供、つまり私達のためです。




あなたがたはこうした会議で、私達がどんな世界に育ち生きていくのかを決めているんです。

親達はよく「だいじょうぶ。すべてうまくいくよ」と言って子供達を慰(なぐさ)めるものです。あるいは、「出来るだけのことはしてるから」とか、「この世の終わりじゃあるまいし」とか。




しかし、大人達はもうこんな慰めの言葉さえ使うことが出来なくなっているようです。お聞きしますが、私達子供の未来を真剣に考えたことがありますか。

父はいつも私に不言実行、つまり、何を言うかではなく、何をするかでその人の値打ちが決まる、と言います。




しかしあなたがた大人がやっていることのせいで、私達は泣いています。
あなたがたはいつも私達を愛していると言います。

しかし、私は言わせて貰いたい。
もしその言葉が本当なら、どうか、本当だということを行動で示してください。 

最後まで私の話を聞いてくださってありがとうございました。 






出典
http://www.tohph.com/severn/

セヴァン・スズキさんの発言は、上記ホームページから丸々抜き出し、ところどころ読み易いように漢字表記に訂正しました。

また、文中の【こじき】という表現は、誠に勝手ながら【物乞い】とさせて頂きました。


----------------------------------------------------------ここまで--




あなたが12歳の時は誰に何を語っていましたか?
思い出してみてください。

さて、当たり前のことですが、一度決断した後のことは四の五のと考えても仕方がありません。




ストレートで生々しい表現になりますが、子供を作ることを決断し、そして子供が出来たと決まった後は、結果を受け入れるだけです。

もう既に、どのような子供が産まれてくるのか、決まっているのですから。

そんなものに対して、健康な方がいいとか何とか願っても、そりゃ仕方がないでしょ。違いますか?




セヴァン・スズキさんも言ってましたね。

「大人達にも、ぜひ生き方を変えて頂くようお願いする」とか「私の話には、ウラもオモテもありません」とか「不言実行、つまり、何を言うかではなく、何をするかでその人の値打ちが決まる」とか。




不言実行、そう、人間の値打ちは何を言うかではなく何をするかです。

ここでの実行とは、決断した後の結果に「責任」を持つということですよね。
お分かりですね。




レストランで、ラーメンを注文した後に、やっぱりうどんが良かったとか、スパゲティーが食べたかったとか、「今更何をごちゃごちゃ言ってるの」っていう感じ、分かりますよね。

「おいしいラーメンであって欲しい」なんてことを願っても、ラーメンの味はラーメンを注文した時点で既に決まっているのです。

おいしくても、おいしくなくても、その結果に対しては責任は取ってくださいよ。




やるだけやって、後は知らないなんて頂けません。

そんなのまるで、やりたい放題やって、後は知らん振りを決め込む政治家みたいじゃないですか。

橋を造りたいだけ造り、道路を造りたいだけ造り、鉄道を造りたいだけ造り、港を造りたいだけ造り、何とか会館を造りたいだけ造り、そして借金を作るだけ作って、「後は知らない」なんて、まるで政治家です。




2005年9月に行なわれた衆院選にて、広島6区の亀井静香さんの刺客として出馬した「ホリエモン」ことライブドア堀江貴文社長。

彼はこれまでの著書の中で、「ちょっと頭のいい人なら政治家なんかやらない、だから僕は政治家なんかやらない」と蔑(さげす)んでいた政治家みたいにです。

ホリエモン流にもっと言ってしまえば、「僕みたいな起業家はちょっと頭がよくて、彼らみたいな政治家はちょっと頭が悪いんだ」ということになるのでしょう。




いや実際は、「ちょっと頭のいい人なら政治家なんかやらない、だから僕は政治家なんかやらない」と言ってるだけでしたね。

ストレートに政治家は頭が悪いとは言わずに、婉曲(えんきょく=遠回し)な表現をされてただけですね。失礼しました。




ちょっと冒険して、いっその事、可愛く愛嬌を込めて「おバカ」って言っちゃおうかな!

言っちゃえ!言っちゃえ!

ではと、そ、そんなおバカな政治家に「お願いします、お願いします」と拝み倒され、頭を下げ倒され、握手され倒されれば、政策なんかはどうだってよくなって、そんなもの一切聞かない、義理と人情と付き合いや雰囲気で投票します、という我々は一体何者よ。

おバカよりも考えていないから、誰よりもバカっていうこと、地球上で一番バカっていうことなの!




堀江貴文さんや、刺客小池百合子さんに破れた東京10区の小林興起さんの、「結果がすべて、結果がすべてなんです」という敗戦の弁。

生き馬の目を抜く程のビジネス界や政治の世界で生きる者が持つ、当然の決意がそうさせるのでしょうが、迫力ですよね。

もはや、誰がバカとかの次元じゃありませんね。

「誰がバカでもどうでもいい、何だったら私がバカになってもいいよ、その代わり結果だけはくださいよ」ってな感じです。




選挙後、堀江さんは「また戻ってきます」と、疲れ顔の中にも切り替えの早さと潔(いさぎよ)さを込めたような、小林さんは「もう二度と戻ってこれない」との悲壮な思いと人生の終焉のようなものを、眉間(みけん)で表現して見せたような。

堀江さんのテンションの上がりようは、「さては選挙の麻薬にはまったな」と思える程で、小林さんのテンションの下がりようは「選挙に人生を掛けてしまったな!選挙に生死を預けてしまったな!」と思える程。




要するに両者とも必死なのでした。そう、一言でいえば「必死」。
そう、政治家が持つ「結果がすべて」とは、生死を分かつ価値観だったのです。

彼らがそこまで必死で言うのなら、それなら、我らもお付き合いして、「我らも結果がすべてなんだ、って言っちゃおうかな」ってね?




選挙の有無や選挙の結果に関係なく、道路は造られ続け、空港は造られ続け、鉄道は造られ続け、港は造られ続け、何とか会館は造られ続け、借金は増え続ける。

反面、我らは、必死の形相をしてそれらに歯止めをかけようとしている政治家、そんな政治家を見掛けることはない。
誰一人として。

当選するためには、死ぬ程の顔をして拝み倒すくせして、国の借金、すなわち我々国民の借金削減のためには、死に物狂いで拝み倒すなんてことは決してしない。




ねえ、当選すれば幸せで落選すれば不幸せ、これが全てなの?

選挙の後にはみんな言うようだけど、命からがら刺客に打ち勝った岐阜1区の野田聖子さんも、声を枯らして言ってました、「選挙が終れば次の選挙」だと。




そう、政治家は選挙が終われば次の選挙なのです。

当選するためには声を枯らすほど必死で、「国民の借金を減らすためには、声なんか枯らせられるか、命なんか掛けられるか、こちとら次の選挙で忙しいんだ」っていうことなのです。




皆さんは結果がすべてだと言うけれど、我々の投票した結果は一体どうなのよ。
我々が投票した結果を一体どうしてくれるのよ。

誰に投票したって、借金が増え続ける不幸の真っ只中じゃないの。




そりゃー、皆さんは当選すれば名誉であるし、「先生、先生」と持ち上げらて気持ちいいことでしょうが、でも我々の結果はどうなのよ。

皆さんが当選しようが落選しようが、我々は気持ちがいい・・・いや、気持ちが悪いままじゃないですか。




「ケッ、結局、自分の快楽のために必死なだけかよ。バカバカしい。勝手にやってろ!」

「大体、世の中は結果がすべてじゃないだろが!」

ちょっと頭のいい彼らが、「結果がすべて」なんてことを簡単に言うもんだから、当方みたいにかなり頭の悪い人間が迷わされるんだよね・・・




んーん、自分の快楽のために必死なのは当たり前のことか!でも、でも!

「そうじゃないでしょ。結果なんてどうでもいいんでしょ」

かなり頭の悪い当方は、かなり頭は悪いけど、この辺の真理である「結果なんてどちらでもいい」ということを理解しているから、今こうして辛うじて幸せでいられるのです。

起業家でなく、政治家でもなく、幸せなのです。




彼らの影響をモロに受けていたら、東大に行かなきゃ幸せじゃないし、甲子園に出場しなきゃ幸せじゃないし、オリンピックでメダルを取らなきゃ幸せじゃないと、そう思い込んでいたことでしょうね、たぶん。

勝たなきゃ意味が無いんでしょ。




彼らの言うことを鵜呑みにしていたら、障害が有ればそれだけで不幸な人生、不健康になればその時点で人生が終ると、そうなっていたに違いありません。

何せ、結果がすべてなんでしょ。




どうです?

「当選しようが、落選しようが、どちらでもいい」なんてことを言ってる政治家に、お目に掛かったことがありますか?

「勝っても負けてもどちらでもいい、自分の行動が招いた結果は、そのまま受け入れる」なんて呑気(のんき)なことを言っている政治家はどこにも居ないのです。

勝つ以外に、己が存在している理由がないのですから。

マア何れにせよ、結果がすべてじゃないなんてバカなことを、理解できている頭の悪い人間は、この世の中には少ないっていうことですかね。




話が大きく逸(そ)れてしまいました。とにかく、我々は政治家みたいなやり逃げは止めましょう、というお話です。

「おいしいラーメンが食べたいな」なんていう台詞(せりふ)は、注文する前にしましょうよ、っていうことですよ。

株を購入した後の値下がりで、「後悔に夜も眠れず」なんて迷い人をよく見掛けますが、株を購入することを己が一旦決めたのなら、そんなもの上がろうが下がろうがどちらでもいいじゃないの。




上がれば幸せで、下がれば不幸なんじゃありません。
どんと構えて結果をすべて受け入れてくださいよ。

眠れないほど気になるなら、始めからしなきゃいいじゃない。




上がろうが下がろうが、所詮はお金のお話。大したことありませんよね、政治家の皆さん!

幾らお金を増やしたところで、国の借金返済のためにすべて徴収するんでしょ。
みんなスッカラカンにするんでしょ。

政治家の先生方はこんなこと、とっくに知っていて、でも決断するのが嫌なものだから、先延ばしにして来ただけなんですよね。




だったら、今、目の前に存在しているかのように見えるお金は、いずれは無くなる幻なんですね。

それなら、将来無くなるものが、今無くなったとしてもどうってことないですね。

有るようで無いもの、そんなもの、幸せとは何の関係もないですね。




所詮、お金なんてものは、幸せを構築するひとつの要素に過ぎません。
そう、ひとつに過ぎないのです。全てじゃありません。

幾つか有る幸せを構成する要素のひとつなんです。
お金という要素のひとつ位欠けたって、幸せに何の関係がありましょうや。
無いじゃありませんか。




何の関係も無い、そんなお金に振り回されてばかりで、幸せは一体どこに有るというのですか。

そう言えば、選挙も幸せを構成するひとつに過ぎないな。
それだったら、そんなもののひとつやふたつ欠けたって、どうってことないよね。
そんな死ぬ程の顔をすることですか。




私の足には障害がある。
そして、眼前には山が開けている。
と、しませんか。




さて、あなたならどうしますか。

あなたは障害をお持ちの当の本人です。
そして、あなたが取り得る選択肢は2つ。
目の前の山へ登るか、諦めてその場を立ち去るか。




次に、山を目の前にして迷っている場所から後ろに50歩下がってみましょう。

その光景を客観的に冷静に眺め、第三者的に拱手傍観(きょうしゅぼうかん=手を組んで何もせずそばで見る)するのです。

さて如何?
どうでしたか?




この場合の捉え方も2つでしょう。

彼は障害があるけど山を登ったか、障害があるから登らずに立ち去ったかの。

一体何が言いたいかといえば、足の障害をマイナスと見るか、単なる個性の一つ、人間本来のありのままの姿と見るかの違いです。

この両者の違いを分かって頂きたいがために、こうして、このように例えさせて貰っているのです。




人々は、見た目が同じだから同じ人間だと考えがちです。

頭の中の考え方も同じであれば、同じ人間だと考えがちです。

我々は、群れるのが大好き、仲良しグループが大好き、護送船団方式が大好き、無責任体制が大好き、結果平等が大好き、そう、まったくと言っていい程「同じ」が大好きなのです。




いやいや、でも実はそうじゃない。

真実は、見た目が違うから違う生き物じゃなくて、見た目が違うから、だからこそ同じ生き物だったのです。

見た目どおり、顔がひとつひとつ違っているように、体がひとつひとつ違っているように、人それぞれ、みんなバラバラで個性的なのです。




喋れば直ぐに分かりますが、みんなの思っていることや考えていることは、当たり前のことですが、すべてバラバラ。

でも同じ人間です。
考え方や思想が違うからこそ、だから同じ人間なのです。




見た目が違うから、差別されるんじゃありません。
見た目が違うからこそ同じ人間として扱われるべきなんです。

貧乏だから差別されるんじゃありません。
貧乏だから、みんなと違うから、だから同じ人間として扱われるべきなんです。




成功していないから、差別されるんじゃありません。
成功していないからこそ、同じ人間として同等の扱いをされるべきなんです。

思想や信条、考え方が違うから、だからこそ同じ扱いをされるべきなんです。

障害があるからこそ、だから同じ扱いをされるべきなんです。
病気だからこそ、だから同じ扱いをされるべきなんです。




太っているからこそ、まったく同じ扱いをされるべきなんです。
されていませんか?どうですか?

ホームレスだからこそ、同じ扱いをされるべきなんです。

目が悪ければ、メガネを掛ければいいし、何らかの力を借りればいいのです。
山へ登りたければ、ロープーウェイを使えばいいし、誰かに背負って貰ってもいいのです。




足に障害があれば、何らかの力を借りればいいだけ。
誰かの援助を受けれいいだけです。

違うから違うんじゃありません。
違うから違う生き物じゃありません。

違うけど同じなのです。
いや、違うからこそ同じ生き物なのです。




我々は「同じだから同じ人間」というように思考し、そんなみんなと群をなし寄り添って生きてきました。

「違うから違う人間」と考え、同じ人間なのに仲間はずれにし、触れないようにして生きてきました。




さて、そういう「違うから違う」という思想が、今まで一体何を招いて来ましたか?

そう、そうですね。
見た目の「違うから違う」は、この世に差別を生んで来ましたね。

やりたいことが出来ない社会を生み出して来ましたね。
それは、山を前にして諦める社会です。




やりたいことがしたい人に、やりたいことが出来るような支援をしない社会を生んできましたね。それは、山を目の前にした人に手を貸さない社会です。

そう、我々は相手を認めない社会を作り上げて来たのです。
戦争を起こし、殺戮(さつりく)し、殺し合う社会です。




「違う人」を、徹底的に町中から人里離れた辺鄙(へんぴ)なところへ追いやり、表通りから裏通りへ隠し、臭いもののように蓋をして来たのです。

頭の中の「違うから違う」、すなわち思想の違いは、人間同士に優劣を付け、非難と無視でいがみ合い、戦争や殺戮、殺し合いを生み出したのです。




いや違う、そうじゃない。
ありのまま、そのままの人間は、みんな同じ命を持った同じ人間なんだ。
見た目や考え方は違えども、同じ人間、いや違うからこそ同じ人間なんだ。

非難や無視、戦争や殺戮や殺し合いは、見た目や考え方の違いが、お互いに認められないから起こるんだ。

人々は、お互いの違いを、違いとして認め合えないからこそ、傷付け合うんだ。




なーんだ、だったらこうすればいいじゃん。

人間違うのが当たり前というのが理解できれば、当たり前のように相手を認めるんじゃないの。

足に障害が有ることによって、やりたいことが出来ないなら、ロープーウェイや駅に設置されてるエレベーターや、そんなのが無ければ、我々が背負ったっていいじゃないか。




何らかの支援さえあれば、やりたいことが出来るんでしょ。

違うけど、だけど、やりたいことは出来るんじゃないですか。
違うけど、やりたいことが同じように出来るなら、みんな同じじゃないですか。




つい調子に乗ってしまって、障害とラーメンを同列に描いてしまいましたが、勘違いされたら困りますので、ここはもう一度念押ししておきますね。

ここでのポイントは、「結果は、ありのままそのまま、有るがままを受け入れよ」ということ。

すなわち「自分の行動の責任は自分で取れ」ということです。




このような強制的な言い方、気に入りませんか?

押し付けられているようですか?
なんか結果を受け入れなきゃいけないような、そんな感じがしてなりませんか?

周りから、結果を受け入れるいい子で居ることを期待されているようで、プレッシャーですか?




じゃー、これでは如何。

人生とは決断の積み重ねである。

その決断のひとつひとつに後悔するようなら、人生は後悔の連続となり、後悔の積み重ねが人生そのものとなる。




だったら、決断の後は決して後悔しない。
これが出来ないなら、幸せは望まない。

最後に、ありのまま、そのままの人間はみんな美しく、そして素晴らしい、ということでは。









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