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人間性悪説?人間性善説? - 提供「価値辞典」

人間性悪説?人間性善説?解説者「価値辞典」!現実の人間は人間性善説ではないことや人間性善説を信じて行動すれば、そこには裏切りが待っていることを証明しています。人間性悪説、人間性善説の本当に意味するところが分かれば気持ちは楽になるのです。

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人間性悪説 人間性善説


自由経済というものは、良く言えば、世界中を資本が自由に動き回り、自由に自分の個性を伸ばすことができるもの、と言うことができ、悪く言えば、欲望を極限にまで解放し、そして、自由奔放に際限なくどこまでも拡大すること、と言うことができます。

自由経済を、額面通りに捉え、自分の欲望を、誰にも恥じることなく正々堂々と追求してくれるのであれば、それはそれで素晴らしいことなのですが、全くの自由であると聞けば、必ずと言って良いほど、ズルをする者が出て来るのです。



ズルと言うよりは、インチキと言った方が、良いかもしれません。

だからこそ、自由経済には、インチキをチェックし、罰を与える審判が、必ず居るのです。

それは、不正は絶対にしないという、個々人の自覚の醸成を待っていたのでは、自由経済など、いつまで経っても実現できず、未だに統制経済のお世話にならざるを得ないからです。




キャッシュカードやクレジットカードの暗証番号などを、ATM機や店舗のカウンターにて、わざわざ盗み見る人は居ない、例え、意図せずに見えたとしても、犯罪をしようと思い付く人は居ない、思い付いたとしても、実際に行動に移す人は居ない、そういう人間性善説に立てば、莫大な費用と注意や工夫を要する仕掛けは必要ではなくなり、ある日突然、買ってもいない物の請求を、されるなんてこともないのです。




政治家は、偉大な賢人であり、官僚は、身を捨てて天下国家を憂える選良、国民は、清廉潔白な良民であり、いづれも、インチキなどしない、という人間性善説に拠って立てば、狂牛病騒ぎの影響で売れ残った国産牛を、買い取るBSE対策事業という国の善意が、偽装国産牛を買い取らされる仇で返されることもないし、また、北海道西友元町店が、外国産肉を国産と偽って販売したことへのお詫びに、レシートの提示を求めず、自己申告のみで返金に応じる姿勢を見せた場合も、買ってもいないのに店に押し寄せる、虚偽申告者の群を、招くことにはならなかったのです。




現実の人間は、人間性善説ではないことや、人間性善説を信じて行動すれば、そこには、裏切りが待っていること、を証明しています。




暗証番号などを取り扱う上での、安全なシステム構築は当たり前、店舗での買い物は、暗証番号などを、誰の目にも触れさせなくする工夫を要する、店員に対しては、カードを自分の目が届かない所へ、持ち運ばないように監視をする、すなわち、人間を一切信じない疑り深さを、必要とするのです。

BSE対策事業において、本当に国産牛かどうかを判断するには、全箱をチェックすれば、話はそれで終わりなのですが、そうなれば、「チェックをするのが手間」とか、「人件費を賄う税金の無駄遣いだ」と言い出す人が居て、「何故国民を信用しないのか」との声を上げる人も出て来るのです。




笊(ざる)などと表現された、杜撰(ずさん)なチェックの、BSE対策事業を行った農林水産省は、何故ちゃんとチェックをしなかったのかを、一斉に非難されました。

しかし、「何故人間を信用したのか」とか、「人間を信用した、農林水産省が悪い」などの、事の真相を的確に表す言葉を、口に出す人は居なかったのです。




この世の中は、「人間を信用する」とか、「人間を信用しない」などの、露骨な表現は使わないものです。

チェックをしなかった、とは、要するに、人間を信じたことなのですが、「何故人間を信用したのか」とは、誰も非難しないし、間違っても口には出さないのです。




北海道西友元町店で国産肉を買ったかどうかは、レシートを提示させれば、何の問題も無かったのですが、そうなれば、「レシートを失くした」とか、「何故疑うのか」となってしまい、客を信用しないことを責められるのです。

もし、自分が北海道西友元町店の近くを通り掛ったとしたら、「当然群がるんじゃないの、タダでお金が貰えるんだもの」と、平然と答える人も居る始末。




「人間は、信用して貰えなければ、腹が立ち、信用して貰えても腹が立つ」、どうやら、人間の心の自立を期待しても、無理なようです。

この世の憂鬱やストレスのほとんどは、自分を取り囲んでいる、自立していない人間達から発せられていることに、気付かされるのです。




人間性悪説とは、人間の本性は利己的な心を本来的なものとする、悪であるとし、人は生まれながらにして罪を背負った悪人であり、どんなに良い人間のように見えても、必ずと言って良いほど、悪いところがある、と考える説です。

それとは逆に、人間性善説は、人間の本性は先天的に善である、とする説です。




複雑極まりなく交錯する、人間関係、因果関係、利害関係、それよりも複雑な、個々人の心理や行動、そして、それらが織り成す人間模様を、解きほぐして本質を浮き彫りにし、単純化させ論点を整理すれば、法律学では、人間性善説と人間性悪説の、どちらの立場に立って人間を捉えるているのかを、論議することが可能となり、経済学では、人間は、一体どのような生きものなのかを議論でき、文学では、その時代の人間観が、どのように表されているかを評価することが出来るように、人間性善説、人間性悪説の、どちらかの立場に立てば、ものの見方や考え方を、おおよそ固定することが出来るのです。




中国戦国時代の、荀子と孟子がそれぞれを説き、云々、と説明できないこともありませんが、興味のある方以外は、「そのことを知識として覚えたところで何になる、人間への処し方が変わるとでも言うのか」との疑念を懐き、結局、「自分は何も変わらない」との答えを導くだけですので、ここでは、昔の人がそう唱えた、とだけ言っておくことにします。




さて、覚えても仕方が無いとしても、自分の身の回りにいる実際の人間には、人間性悪説が当てはまるのか、それとも人間性善説なのか、ということが気になります。

今までの人生経験に照らし合わせると、根元的に悪であると見受けられる人や、心底から善人だと思える人も、確かに両方居て、人間性悪説、人間性善説のどちらも正しい、結局は、人間全体として捉えられるものではなくて、各個個別の問題ではないか、と思えたりするのですが、先人達が、個別問題にはせずに、総体として人間を捉えているからには、そこには何かがあるのでしょう。




果たして、真実はどちらにあるのだろうか、と思索し直したりもするのですが、絶対そうであるとは、誰も言い難く、人間性悪説、人間性善説、どちらの説も、先人達が生きていく上で、そのように考えた方が気が楽、とか、それぞれの地域での、生活環境の影響を考慮して生きていく時に、自然発生的に芽生えてきたもの、といった程度のものではないかと思うのです。




強引に、しかも、思い切り良く、または、勘違いや見誤り、錯誤によって、人間性悪説や人間性善説の、どちらかに偏ってみても、別に良いと言えば良いのですが、しかし、その場合は、人間を二者択一の単純な問題に矮小化し過ぎて、間違ったものの見方や考え方を誘引し、そこから派生する、しっぺ返しで痛い目に遭う結果を、招くことになりはしないかと、思ったりもするのですが、荀子さん、孟子さん、如何ですか。




自立している人間なら、「何かあったら、自分が至らなかった責任だ」と思えるのでしょうが、それこそ何かあったら、すぐに誰かの責任にしないと気が済まない人達に対して、インチキをしているかどうかを、チェックしてみたところで、どの道文句を言うのですから、この際は、彼らを徹底的に監視する、すなわち人間性悪説に則(のっと)ってみては、如何でしょうか。

自立思考を身に付けた人にとっては、世の中が人間性悪説だろうが、人間性善説だろうが、出た結果に対して、責任を持つのですから、要するに、人間性悪説、人間性善説の、どちらでも良い、ということになります。




自立した人間は、約束を守り、責任転嫁をせず、自己責任を取るのだから、例えば、数年来の懸案、銀行の不良債権問題にしても、その元凶である、「借りたお金を返さない」という、卑劣極まりない行為を、誰もしないのです。

そもそも日本が、自立した人間ばかりで成り立っている国ならば、銀行の不良債権問題は疎(おろ)か、様々な経済対策などは、必要が無いのではないでしょうか。




ズルをする人が居ない、インチキをする人が居ない、自己責任を取らない人が居ない、約束を破る人が居ない、借金を踏み倒す人が居ない、となれば、現在の経済のマイナス要因はほとんど無くなる、と申しますか、それより、好景気だろうが、不景気だろうが、どちらでも良いのではないかと思うのです。




不況だから不幸せ、とよく聞きますが、一体何を根拠に言っているのだろうと、そう思うことがあります。

不況の経済後進国に住んでいる人々全員が、不幸ではない訳で、そこには日本と同様、幸せな人も居れば、不幸せな人も居て、経済がどのような状態であれ、幸せな人は幸せ、不幸せな人は不幸せ、不況だから不幸せだなんて、誰が決めたのだろうと思いますね。




バブル景気の絶頂期でさえ、不幸せな人は不幸せであって、例え、税金を湯水の如く投入して、バブルを再来させたところで、同じことなのです。

もし、世界中が自立している人々で埋め尽くされているのなら、別に国なんて枠組みに囚われなくても良い訳で、住みたいところで住む、そして幸せを追求する、住んでいる国名を尋ねれば、たまたま○○だった、というだけの話です。




夢物語を語れば、そうなるのですが、ふと見渡せば、現実は、ご存知のとおり、自立していない人間ばかりが、辺(あた)りを埋め尽くしているのです。

「それならば、仕方がない、自分だけでも自立するか」

「自立していない人間から派生する、思わしくない結果についても、受けとめようじゃないか」

「自分だけは、自己責任思考、自立思考を貫こう」

「その代わりと言っちゃー何ですが、自分だけは、自立していない人間には味わえない、幸せとやらを追求させて貰います」

「ついでに、国という枠組みを、取っ払ってしまいます」




さて、ここからが本題のようなもの。

当たり前のことじゃないか、と思われるかもしれませんが、人間性善説を、人間は本質的に、自分の幸せを追求し、幸せを追求しない行動は取らない存在であると、文字通り、「善」いように解釈してみます。

人間を、自立した存在として捉え、接し、対処し、尊重し、敬うのです。

如何なる職業であれ、それは自分が幸せになるために選択した結果であり、自分の取る行動のすべてが、幸せに繋(つな)がるもの、と解釈するのです。

さて、そうなれば、どういうことが起こるのでしょうか。




「たまたま受かったから、今の会社で働いている」とか、「何となく暇で、やる事がないから働いている」とか、「結婚までの腰掛けのつもりで、働いている」と言っている人は、口ではそうは言っているけれど、実は、自分の幸せのために、今を選択しているのであって、当然、その決断の結果については、責任を持つことが出来る、自立した敬愛すべき存在なのです。

「お金のために、仕方無く働いている」なんて言い訳めいた言葉は、口で言っているだけであって、実は、遣り甲斐のある仕事に就き、現に生き甲斐を感じている人に、違いないのです。




「あいつのような出来の悪い人間とは、一緒に働きたくない」と言っている場合も、実は、会社とは、ある程度出来の悪い人間までも、包み込んでしまう器量のある存在であることを、十分理解し、納得した上で、その会社で働くことを選んでいるのです。

それらをすべて分かった上で、敢えて、酒場で愚痴っているだけなのです。

そして、出来の悪い人間や、給料泥棒のような人間を、次々と自分の会社から追い出しても、次から次へと、同じように湧き出てくることを、十分理解しているのです。




出来の良い人間ばかりを集めた中学校に、落ちこぼれが出現します。

更に、出来の良い人間ばかりを集めた高校に、また、落ちこぼれが出現します。

更に更に、出来の良い人間ばかりを集めた大学に、またまた、落ちこぼれが出現します。

更に更に更に、出来の良い人間ばかりを集めた会社に、またまたまた、落ちこぼれが出現します。




競争させれば、落ちこぼれが生まれる、社会なんてこんなもの、組織なんてそんなものなのです。

出来の悪い人間と、一緒に働きたくないのなら、彼らを会社から追い出すよりは、自らが会社を出て、働きたい人間と組む方が、現実的選択で、早期に実現可能なことは、分かり切っているのです。




会社には、数年間隔で行われる人事異動というものがあり、その循環の中で、自分の遣りたい仕事を、与えられることは、奇跡に近いものがあります。

そんなことは、百も承知の上で、今の会社を選んでおり、「仕事が面白くない」なんて言葉を、仮に言ったとしても、本当は、我が居場所を得た、飽くなき幸福への追求者に、外ありません。




サラリーマンの苦労は、個性を出さない苦労、好きなことを遣っている人間は、個性を如何に表現するかの苦労、なんてことは、十分知った上で、「あいつらは良いよな、好きなことが出来て、おまけに高い金を貰っているのだから」と、ただ愚痴っているだけなのです。

そんなことは、すべて分かった上で、自分の個性を殺し、今現在の幸せを追求しているのです。




個人のスキルアップの時代と言われれば、言われるまま、与えられた仕事に関するスキルを取得し、職場だけに通用するスキルアップを、せっせと図ります。

そのようなことをしても、時代を生き抜くサバイバルには、何の役にも立たないこと、会社の肩書きを捨てた一個人にとっては、何の意味もないこと位、分かっています。

今取得しているスキルなんて、会社という小さな世界でこそ、自慢できるものであって、裸になった一個人、何の肩書きもない自分にとっては、「スキルなんて言えたものじゃない」こと位、分かっているのです。




ただ、今の会社が、自分を今後も雇ってくれるのなら、スキルを取得しようとする姿勢は、評価されるかもしれませんが、所詮、その程度のものであること位、承知の上なのです。

それらをすべて分かった上で、与えられた中で、有利に仕事を進められるスキルを見つけ出し、獲得することに邁進しているのです。




では逆に、人間性悪説とは、本来的に、自らの幸せを追求せず、幸せを追求する行動は取らない存在である、と文字通り、「悪」く解釈してみます。

人間を、自立していない存在と捉え、手取り足取り、上から下の世話、上げ膳据え膳、揺りかごから墓場まで、適当な言葉が見当たらず、どのように表現すれば良いか分かりませんが、とにかく手が掛かるということです。

そうなれば、国の政策も大変、本来個人の才覚で見つけ出すべき、生き甲斐までも与えなければなりません。




「生活のため」や、「お金のため」に行動しているのですから、不景気になれば、当然文句が出てきます。

退職すれば、何も遣ることが無いのは、「政府の政策が悪いからだ」と言い出すのです。

「我々に、明るい未来を示せ、進むべき道を示せ、もっとお金を、もっと仕事を、遣り甲斐を、生き甲斐をよこせ」、と言い出すのです。

人間が生まれてから、死ぬまで手が掛かる、それは国にとっては、かなりの負担を強(し)いられる、キツイ仕事に違いありません。




例えば、「人生とは学ぶことなり」との思想を与え、生涯学習が出来るような環境を、税金を投入して、作ってあげなければならない、といった具合です。

人間性善説ならば、放って置いても、自らの生き甲斐を、勝手に見つけ出すのですが。




我が生き甲斐は、学習することである、と分かった場合、次には、取り組むべきことを、自力で探し出し、そして、遣ることが分かれば、自らの自立思考によって実行するのみ、具体的には、本屋に行き、読みたい本を探したり、読書仲間が欲しいのであれば、ネットワークを立ち上げたり、既存のものを利用したりして、仲間を探し出し、読書場所が無ければ、探せば良いだけで、確保するのは容易(たやす)いこと、著名な講師先生の話が聞きたいのであれば、聞きに行けば良いだけ、何らかの理由で行けない場合は、人のネットワークやインターネットなどを駆使して、取り寄せるだけです。




血税に頼って、読書をしたり、仲間が集まる、建物を造って貰う必要はなく、また、著名な講師先生を招いた講座を、開いて貰う必要も無いのです。




高速道路が必要だと、言うのであれば、造ってあげる必要があります。

そうでなければ、不況の地域経済、地域の活性化、新規産業の育成、観光産業の不振、少子高齢化、過疎化、若者の流出、環境破壊、交通渋滞、交通事故、自然災害、都市圏へのアクセス、公共交通の利便性の向上など、すべてのマイナス要因は、「高速道路を造らないから起こっている、だから自分は不幸せなんだ」と言われてしまうのです。




人間性善説であれば、国の政策や地域の枠組みには囚われない、自立した思考をしますので、国がどのような政策を取ろうが、それとは関係が無く、もし高速道路が必要であるならば、それがある場所へ行けば良いだけのこと、必要でなければ、無い所へ行けば良いだけなのです。

「自分にとっての幸せとは、何処なのか」という視点で、住むところを選ぶのです。




場所という概念から解き放たれた思考など、とんでもない話、先祖代々の土地を簡単に捨てられるか、と言う人には、人間性善説を適用し、地域が発展すればするほど、後々莫大な負担をすること、そして、最後は自己が責任を取ること、などを知らしめ、それでも良ければ、何なりとお遣り下さい、と言うしかありません。

造らせたものの負担を、自らするのは、極当たり前過ぎますが。

しかし、人間性悪説ならば、高速道路は欲しい、だけど、通行料金や税金は上げるな、となるのでしょう。




地域の発展は自分の幸せである、との、人間性悪説特有の、幸せを求めない行動を、飽く迄取るのであれば、地域が発展しない限りは、自分の幸せはないことになります。

そう言う人には、別に大金を叩(はた)いて、造ってあげても良いのですが、仮に、高速道路が出来たり、地域が発展したところで、結局、自分の幸せとは関係が無いことに気付く筈で、もしかすると、気付かずに、自分が幸せでないのは、まだまだ地域の発展が足らないからだと思うかもしれず、そうなれば、更なる発展を目指し、地方や国へ陳情攻勢をかけ、何でも良いから箱物を造ってくれ、と言い出すのです。




「何でも良いから」とは、少し言い過ぎたかもしれません、巷間伝わる、「どのような田舎にも、都会と同じ程度の利便性をよこせ」に訂正しておきます。

幸せを追求する者同士の関係である、人間性善説に立てば、言っていることを尊重し、言われる通りに遣ってあげるだけです。




国は要求のまま、高速道路を造り、地域住民は、造った結果に対しては、地域の人間だけではなく、国民全体で責任を取ることを知った上で、自己も勿論責任を取る、要するに、大人と大人の関係、イコールパートナーの関係、お互いに尊重し合う関係、刺激し合い、成長し合う関係なのです。




人間性善説で行くと、人がどのような考え方をし、行動をしようとも、尊敬し、尊重することになります。

それが、自分にとって、理不尽であり、不合理であり、理解不可能であったとしても、関係がありません。

「夢を持たないのは信じられない」

「夢など無い、人生は巨大な暇つぶしである」




どのように言って頂いても、して頂いても、結構、反論や議論をする必要はありません。

尊重し、尊敬するのです。

こうなれば、軌道修正は、そうしたければの話ですが、自らがする外ありません。




『価値辞典』が作り出す文章も、「人間を、どのように捉えるか」によって、内容が随分と変わって来ます。

人間性善説を取れば、「何故幸せを追求しないのか」についての件(くだり)は必要ではなくなり、幸せを追求する途上において、遭遇するであろう困難に対し、「こうした方が良いのでは」とのアドバイスになり、また、お互いの関係も、共に刺激し合い、成長するパートナーになるのです。




現実は、人間性悪説、人間性善説の、どちらとも言えず、個別の問題だと思うのですが、人間性善説、人間性悪説のどちらとも、決め付けずに文章を書けば、拠って立つポジションが動き回るため、焦点の定まらない混乱したものになるのです。

しかし、対象を絞らない以上、大多数の読み手に、より多く共感して頂く書き方は、この手法しかないと思うのです。




ロックンロールとは、石が転がるように展開される様から、名付けらているそうですが、文章においても、まず最初に、言葉が転がるように、出来るだけ多くの矛盾点を論(あげつら)い、展開させて、混乱を呼び起こし、矛盾点を列挙し、既存の価値を突き崩し、問題点を浮き彫りにし、そして、収束させて、価値の再構築を促し、結論付ける。

このような描き方の手法が、あるかどうか分かりませんが、試しに、ロックンワード(転がる言葉)と名付けて、検索エンジンで探してみれば、一致するページは無く、お遊びでも思い付かないような、可笑しな言葉のようです。




世の中の書き物の中には、矛盾点を論うだけで、既存の価値を突き崩すまでには至らず、従って、混乱を引き起こすだけのみにて、そして、疑問を残したまま、何の結論にも触れずに、終わっているものがほとんどです。

それもまた、果たして自分は人間性悪説なのか、人間性善説なのか分からず、世の中の人間が人間性悪説なのか、人間性善説なのかも、分からないことから来ているのです。




散々混乱させた挙げ句、「国民が、将来夢を見られる展望や道筋、制度を、示して欲しいと皆が願っている」とか、「国民も為政者も、共に夢を描き、実現させたいものである」などの言葉の投げ出し方をして、誰に、何を、どのようにして欲しい、と言うのでしょう。

最低、筆者本人の結論めいたものでも、欲しいところですが、結論を見い出していないか、悪く言えば、混乱させるだけが目的、良く言えば、問題提起をすることが目的、と言えるのです。




もちろん、人間性悪説や人間性善説を認識せずに書いている場合や、疑問形で問題提起をし、考えさせるという手法を、選択している場合もあるでしょう。

また、拠り所とするものが無いため、視点がズレて、答えが幾通りも錯綜している場合もあるのでしょう。




試しに、不特定多数に向けて、あなたが主張したいことを、何でも良いから書いてみてください。

人間をどのように捉えるか、人間性悪説とするか、人間性善説とするかで、内容が変化する筈です。




中国戦国時代の、荀子と孟子が、人間性悪説と人間性善説の、どちらかの立場に立ったのは、その方が、自分の考え方を主張し易かったからに、違いありません。

自立している人に対して、「何故自立しないのか」なんて問い掛けめいたものは必要ないし、自立していない人に対しても、自立した者同士の、テクニックやスキルを、提示する必要はないのです。

荀子さん、孟子さん、さぞや、注意散漫な文章が、スッキリしたことでしょう。




(参考)
rock:岩、揺れる roll:転がる
rock and roll:rock-'n'-roll


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