自己中心主義・利己主義・エゴイズム・利他主義・組織の論理
どちらが自己中かなんて、どうでも良いし、興味ないよ。自己中心主義?利己主義?エゴイズム?利他主義?組織の論理?世の中の人すべてが、自己中心主義者でも別に構わないじゃないか。
このページは価値辞典の提供です。
どうでもいいことに、時間と労力と、人生を掛けるくらいなら もっと価値辞典を!
「自分は、自らのやりたいことをマイペースに成し遂げたいのだ」と格好を付ける訳ではなく、本当に思っていることなので、それを素直に言うと、「おまえは、なんだかんだ言っているが、結局、自己中心主義者だ」、とのちょっとカチンとくる言葉が友人から返ってきます。
自分:「いや違う、自分の考えや言動を絶対と思い込み、他人の言うことを一切受け付けない独り善がりではなくて、自分の基準やモノサシに沿って方針、目的、目標に沿って成し遂げたいのだ。」
友人:「だから、人の言うことを聞かず、自分独自の基準に基づいているのなら、自己中じゃないか。」
自分:「他人の言うことは、全く聞かないとは一言も言っていないじゃないか。人の言うことは聞いて参考にする。そうするのだから、私は自己中ではなく自己達成型人間なのだ。」
友人:「それを自分勝手の自己中と言うんじゃないか。まあ、どうでも良いよ。何れにせよ、私も好きなことをしているから、自己達成型なんだね。しかし、同じことを何度も言うけど、おまえは、自己達成と言いながら自分のことしか考えず、自己満足を得るためにしか動かない自己中心主義者だと思うけどな。」
私は、自己中心主義者みたいな身勝手な考え方の持ち主ではないと思って、それこそ自己中心的な友人と話を始めた筈でしたが、自分の今ある心構えを本音で語れば語るほど、「おまえは自己満足をしているだけ、それを自己中心主義と言うんだよ」とかなりムッとくる言葉の連発、一体、自分は何を言っているのか、友人は何を言いたいのか、自分がジコチューなのか、友人がジコチューなのか、全く整理がつかず、かなり訳が分からない状態です。
自己中心主義、自己中心主義者、自己中心的、自己中、自己チュー、ジコチュウ、ジコチュー、じこちゅう、じこちゅー、と自己中心主義的なものは様々な言葉で表現されますが、少々形を変えたところで、何れも人を批判する場合に使われるものには違いがありません。
「最近の若い者は、自己中心的だ」とりっぱな会社の上司は批判こそすれ、決して褒める場合には使わないものです。
自己中心主義を飛び越えて、「最近の若い者は馬鹿じゃないのか」との言葉を耳にすることさえあります。 就職して数日で辞めてしまい、しかもそれを何度も繰り返す。 「そんな短時間で仕事の何が分かる」との会話の後に続いた、強烈な言葉です。
馬鹿呼ばわりは極端として、「君は、ジコチューだね」と上司から言われれば、多少なりとも頭に血が上るのではないでしょうか。
だからこそ、友人との会話においては、どちらがジコチューなのかで、熱のこもった話し合いになってしまったのですが、決着は付きません。
自分の考える自己中とは、自分さえ良ければ周りはどうなろうが関係のない、自分勝手な人。
そう言うことを考えれば考えるほど、やっぱり私はジコチューじゃない、友人こそがジコチューだ、と思う訳です。 「どちらが自己中かなんて、どうでも良いし、興味ないよ。世の中の人すべてが、自己中心主義者でも別に構わないじゃないか。」 そう言われれば、確かにそのとおりです。
自己中心主義者ばかりなら、世の中に犯罪が増え、人助けやボランティアなんかするのは変わり者のすること、災害時には人を押し退けてでも助かろうとする者ばかり、お金を儲けるためなら人を騙しても良いという風潮が蔓延し、良い商品だとは思わなくても平気で人に売り付け、果ては人の顔を見ればお金に見えたり、暴走族は騒音を出し放題、自然は破壊され、ゴミは捨てられ放題、人々はわがままの言い放題、やりたいことをしたい放題、真面目に働くなんて馬鹿のすること、受験や出世のためには人を蹴落とし、食品表示を偽るのは当たり前、法律なんか破るのが当然であって、見つかるやつが馬鹿なだけ、他人に迷惑を掛けることなど気にも止めません。 「世の中、ジコチューばかりでも構わない」と仮定したつもりでしたが、現在のありのままを言い表そうとすればするほど、それは仮定なんてものじゃなくて、真にそのものズバリ、「世の中、ジコチューばかり」を言い当ててしまっているようで、オヤジだけが若者をジコチューと言ってしまうことの的外れな様が、お分かりになろうかと思います。
そうか、世の中の全員がジコチューだったのか。
それなら、ジコチューに批判的意味が込められていようが、悪いイメージがあろうが、全員がジコチューなのだから、お互いに言い合っても意味がない。 人から評価されない生き方を選び、純粋に他人のために働く日陰の存在であっても、そのことにより自分が癒され、自己満足を得られるのだから、それもジコチューである。 友人はきっとそう言う筈で、友人でなくても、そういう人はたくさん居るだろう。 「この際、もう人の言うことなんか一切聞かない、別にジコチューで何が悪い、自分に直接害がなければ、何でも良いではないか」という心境にも、なってしまうというものです。 本来、引き取って貰えない輸入牛肉を国産と偽って、国に購入させて金をせしめた件についても、全員がジコチューなのだから、社長が指示したとか、現場の人間が独断でやったとかは、どちらでも良く、たまたま暴露されただけのような気がしてきます。 たぶん、暴露されれば問題になる行動は、世の中にゴロゴロしているだろう、そう思えてきます。
「いや、私はジコチューじゃない」と言われても、泥棒のようなことをされては、もはや、ジコチューだろうが何だろうが、言葉の問題だけであって、口と行動が連動していないものであれば、「どのような言葉でも、お好きなようにお使い下さい」という感じで、そんなものを、あれこれ説明したところで何の意味があるのでしょうか。
個人の価値に基づく自己中心主義の対極には、他人が如何に考えるかを軸に置いて、それに左右されてしまう他人中心主義が来ると思われますが、それを、自分だけの利益や幸福、快楽を求めて、他人の立場を全く考えないエゴイズムや利己主義だと捉えた場合、他人の幸福を第一に考えることを行動の規範とする利他主義がその反対に来て、破壊や暴力などの力が全てを支配する本能や欲望、それらの赴くままにやりたいことをすると捉えた場合、その反対には、理性的判断と行動が来る、また、好きなことが無く、成し遂げたいものも無いと捉えた場合は、その反対には自己達成が来て、最後に、個性と捉えた場合は、その対極に、個性を殺してしまう組織の論理が来るのです。
箇条書きにしますと、 ・自己中心主義(自己基準中心) ⇔ 他人中心主義 ・自己中心主義(利己主義) ⇔ 利他主義 ・自己中心主義(本能・欲望) ⇔ 理性 ・自己中心主義(無目的・無目標) ⇔ 自己達成 ・自己中心主義(個性) ⇔ 組織の論理 となります。 このようにまとめて見ると、友人との会話が何故チグハグになったのかが、何となく見えて来たような気がします。 要するに、自己中心的というものをどのように捉えるかには、人によって違いがあり、違った捉え方をしている者同士が話をしても、合う訳がないということですね。 コロコロ転職を繰り返す若者が、自己達成をしようとしているのなら、自らが自分自身を見れば、自分は自己中ではない、となる訳です。 会社のためや安定した生活のために、個性を殺したりっぱな会社の上司が、組織の論理を優先して生きていくのなら、自らが自分自身を見れば、これもまた自分は自己中ではない、となるのです。 しかし、自己中ではないと思っている両者がお互いを見た場合、お互いにそれぞれを自己中だと感じてしまうのです。 物凄く複雑な文章になってしまいましたが、人と人が話し合って理解し合うことの難しさ、その一端を垣間見ることが出来たような気がします。 難解で複雑な文章以上に、難解で複雑なコミュニケーション。 お互いに理解できないことから、世の中みんな自己中なんてことに、なってしまうのですね。
人の言うことは一切聞かない、というのは案外正解かもしれません。 「自己中心主義・利己主義・エゴイズム・利他主義・組織の論理」についての考察の末に、そういう結論になるのも、有りかもしれません。
もし、友人との会話をストレスのないものにしようとするのなら、まず最初に言葉の概念を決めておく、即ち、友人の考える自己中心主義とは何なのか、を聞いておく必要が出てきます。
その時点において、「そんなことは、考えたことがない」との返事であるのなら、彼との会話は、さながら不毛な砂漠をさ迷い歩くようなものとなるに違いありません。
条約や法律を定める場合には、予め用語の指し示すものを決めておいて、それから中身を作成するというものですが、友人との会話においては、用語の意味を決めておくなんてことはしないものです。
現実には、友人との会話において齟齬を無くすためには、他愛もない会話に終始させた方が良さそうです。
さて、ジコチューじゃないと言う人の行動が、実際に自分勝手ではなく、言ったことと行動が合致しているということを前提にすれば、自己中心主義と自己中心主義じゃないのとは、何が両者を分かつのでしょうか。
分ける前に、まず、法律違反は除外することにします。
法律違反をした人を、自己中とか自己中じゃないと言わなくても、法律違反をしているのですから、法律違反をした人と呼べば良いのです。
・人 − 法律違反の人
差し引かれた後に残った人が、道徳やモラル、常識に悖る場合に、彼らを自己中か自己中じゃないかを決めるのは、微妙な判断になります。
友人にとって常識であるものが、自分にとってはそうでない場合がいくらでもあり、道徳やモラル、常識をどのように捉えるかによって、個々人判断が違って分けようもなく、ましてやそれを他人が判断するのは無理というものです。
ここはもう、本人の責任において、自分で判断して貰うことにしましょう。
判断のモノサシとしては、「相手の立場になって考える」を当てることにし、「自分がもし、同じ事をされたらどう思うか」で考えて頂くことにします。
自分がされたら嫌なことを、他人にしている人は、自己中。
相手の立場になって考えている人は、自己中じゃない。
・人 − 法律違反の人 − 相手の立場になって考えていない人
何やら訳の分からないものを、視覚で捉えることの出来るスッキリとした式に、まとめることが出来たように思います。 「人は、誰にも迷惑を掛けずに生きては行けない」とは言うものの、ここでは、相手の立場になって考えたかどうかを自ら判断することで、その問題をクリアーしたことにしておきます。 そうでなければ、また「迷惑」という題で、どこまでが迷惑というものか、相手の立場になって考えるとは、どこまで考えたらオーケーなのかなど、長々と書き綴らなければならないからです。
残されたのは、法律違反をしていない、相手の立場になって考え行動する人のみです。
ここからが本番、そもそも自分も友人も、法律違反はなく、誰にも迷惑を掛けていない、という段階から始めた会話ですから、額面通り受け取れば二人とも自己中ではないとなってしまうのですが、実際の友人との会話でも見られたように、どちらが自己中かを言い合ってしまうような混乱状態、それを避けるためには、更にモノサシが必要となるのです。
・自己中心主義(自己基準中心) ⇔ 他人中心主義
他人の言うことや動向を気にするのか、それとも、自分の基準をしっかりと持っているのか。
自己中心主義(自己基準中心)と他人中心主義を分けるには、このモノサシが必要となります。
・自己中心主義(利己主義) ⇔ 利他主義
自分の利益だけを追求するのか、他人の利益を最優先させるのか。
自己中心主義(利己主義)と利他主義を分けるには、このモノサシが必要となります。
・自己中心主義(本能・欲望) ⇔ 理性
本能や欲望の赴くままに行動するのか、理性により抑制された行動をするのか。
自己中心主義(本能・欲望)と理性的判断や行動を分けるには、このモノサシが必要となります。
・自己中心主義(無目的・無目標) ⇔ 自己達成
好きなこともなく、従って、方針や目的、目標もないのか、それとも、好きなことがあり、達成したい方針や目的、目標があるのか。
自己中心主義(無目的・無目標)と自己達成を分けるには、このモノサシが必要となります。
・自己中心主義(個性) ⇔ 組織の論理
個性や個人の価値観を重視するのか、組織の利益や存続を優先するのか。
自己中心主義(個性)と組織の論理を分けるには、このモノサシが必要となります。
それぞれを分けるモノサシを準備してはみましたが、自己中心主義(自己基準中心)も自己中なら、自己中心主義(本能・欲望)も自己中というように、相反するものが同じ表現の、可笑しな話になってしまいました。
他人を批判する場合に使われる、「ジコチュー」という言葉ですが、自己基準を持っている人をジコチューとは批判しませんので、従って、「自己チュー」には、褒められる要素のものと、批判される要素のものがあることが分かります。
だからこそ、言葉の概念が曖昧模糊として定まらない、訳の分からない会話に陥ってしまったのです。
「相手の立場になって考える」という、ふるいに掛けて選別しているので、本能・欲望の赴くままに行動するといってもアウトローの意味ではないのですが、自分の考え方がシッカリとある人と、その時の気分次第で行動をする人を、同じように自己中と括ってしまうのは、やはり可笑しいですね。
自己中心主義(利己主義)、自己中心主義(無目的・無目標)、自己中心主義(個性)も、同様に一括りには出来ません。
このように考えてみると、法律違反をしている人と、相手の立場になって考えない人を除いた残りの人を、自己中か自己中でないかを分けようとすると、自己中自体の意味が良いのか悪いのかはっきり分からない不明確さから、どちらでも良いということになりました。
自らが自分自身を自己中心主義(利己主義)だと、判断することは出来るように思うのですが、他人が自分のことをジコチューとかジコチューじゃないとかを決め付けることは、不可能であり、そんなものは本当に無視してやれば良いように思います。
自己中心主義、自己中心主義者、自己中心的、自己中、自己チュー、ジコチュウ、ジコチュー、じこちゅう、じこちゅーという言葉に拘って、あれこれと考えてきましたが、結論的には、相手の立場になって考えてさえいれば、人間としては、もうそれだけで十分であって、言葉はどうでも良いのです。
「人の立場になって考える。」
これはある意味、人間における黄金律であって、これをクリアーした後は、自分ひとりだけで幸せであるかどうか、もうひとつ加えて、みんなの中でも協調して幸せであるかどうか、これら二つの幸せを追求するところに、個性の違いが出てくるだけで、好きなことを見つけて自分ひとりの幸せを追求し、災害などの場合、そんな極端な場合でなくても、日々助け合いながら、みんなの中での幸せも追求する、これが人間というものではないでしょうか。
これを前提とすれば、「世の中は、自己の幸せを追求する人間の集まりである」となります。
法律違反をした人と、相手の立場を考えない人を差し引いた後の人を、強いて分けるとすれば、現状の自己の幸せに安住する人と、更に幸せを追求し続ける人に分けたら如何でしょうか。
ただし、分ける必要がどうしてもあるのならの話で、それは、すべて自己の責任における自己判断に基づかなければ出来ません。
他人の言うことは、自己の幸せには何ら関係がなく、無責任極まり無いからです。
以上のことを踏まえれば、次のような会話が成り立ちます。
友人:「私は、自己中でしょうか?」
自分:「あなた自身の全てを、自己中かそうじゃないかを判断する程、あなたのことを知りません。」
「ここは、具体的な行動ひとつひとつについて判断して行きましょう。」
友人:「実は、食品表示を偽ってしまったのですが。」
自分:人 − 法律違反の人
ここで、上の式を頭に思い描き、当てはめてみます。
「それが、法律に違反しているのなら、当局に見付かる見付からないに係わらず、あなたは法律違反をしたということです。」
「自己中か自己中じゃないかの議論の範疇を、越えてしまっています。」
友人:「次に、普段から道にゴミをよく捨てるのですが。」
自分:人 − 法律違反の人 − 相手の立場になって考えていない人
ここで、上の式を頭に思い描き、当てはめてみます。
「ゴミを掃除する人や、その処理の費用を負担する納税者のこと、または道を利用する人の立場になって考えましたか?」
友人:「いや、考えていません。」
自分:「あなたがそう判断されるのなら、その行為は自己中ではないですか。」
・「人−法律違反の人−相手の立場になって考えていない人」の残りの人は、「現状の幸せに安住する人」と、「更に幸せを追求する人」に分けることが出来ます。 ・人間とは、自分ひとり(個性)だけで幸せであるかどうかと、みんなの中でも協調して幸せかどうかを追求するものです。 上の二つから抽出できる、「協調と個性の軸」と「追求と安住の軸」を組み合わせると、次のようになります。
協
個 |

|
調
性 |
|
+ |
追
安 |

|
求
住 |
|
= |
| 協調と安住 |
協
|
 |
調
|
協調と追求 |
|
安 |
|
|
追 |
  |
| 住
|
|
 |
|
求 |
| 安住と個性 |
個
|
性
|
追求と個性 |
|
「自己中心主義、自己中心主義者、自己中心的、自己中、自己チュー、ジコチュウ、ジコチュー、じこちゅう、じこちゅー」をいろいろと考え、形の見えるものに収斂した結果、結局、自己チューの「ジ」の字も、他人中心主義、利己主義、利他主義、本能・欲望、理性、無目的・無目標、自己達成の言葉も出て来ない式になりました。
人 − 法律違反の人 − 相手の立場になって考えていない人 =
| 協調と安住 |
協
|
 |
調
|
協調と追求 |
|
安 |
|
|
追 |
  |
| 住
|
|
 |
|
求 |
| 安住と個性 |
個
|
性
|
追求と個性 |
「協調と安住」:組織の論理を大切にし、現状の幸せに満足する。
「協調と追求」:組織の論理を大切にし、更に個人の幸せを追求する。
「安住と個性」:個人の価値観を大切にし、現状の幸せに満足する。
「追求と個性」:個人の価値観を大切にし、更に個人の幸せを追求する。
協調の解釈を、災害の場合や、ボランティアなどの助け合いの意味を含める「協調」とせずに、「組織の論理」と捉えた理由は、「相手の立場になって考えない人」を除いた時点で、「協調」することが既にクリアーされているからです。
自分が「協調と安住」、「協調と追求」、「安住と個性」、「追求と個性」のどこに所属するかは、好みの問題みたいなもので、どうでも良い人にとっては、どうでも良いことです。
読者kさんからのご意見(2003/05/28(水)
09:13:23)
[自己中心主義・利己主義・エゴイズム・利他主義・組織の論理を読んで]
はじめまして。
自己中心的という言葉はよく耳にしますが、では何が自己中心的なのかという問いに対しては
明確には答えられない場合が多いと感じています。
実際、人それぞれ定義が違うので、「これだ!」という答えはない事は分かっているのですが、少なくとも感情論中心でない、個人的な意見は欲しとよく感じます。
このページでは、作者自らの考えがきちんと述べられており非常に好感が持てました。
[自己中心主義・利己主義・エゴイズム・利他主
義・組織の論理を見て]
自己中心的であると他者を非難する言葉を見る度に、「よくもまあ他人にそんな事を言ってのけられるよなあ」と感じてしまう。
私自身は自己中心的ということに対して明確な定義を持ち合わせていない。強いて言うなら、「イーブンな関係が成立しうる状況において、一方が他方に対して何の見返りも提示せずに自らの事情に都合のよい労力を負わそうとする事」と考えている。
私自身は、自己中心的という言葉に非常に批判的である。自分自身も「自己中心的」と称されたことがあるが、大抵の場合他者と異なる意見や考えを持ってそれを主張するとそのように称されてしまう。例えそれが、自由に自分の意見を言っても差し支えないはずの雑談の時でもそうであった。
個人的には、コミュニケーションにおいて、「逆らうな」と間接的に脅しを掛ける決め台詞として使われていると感じる。使い方如何によっては、この言葉は、人格を否定することによって、相手のあらゆる言葉の価値を下げ、本来しなくてはならない対話を避ける手段として用いる事ができるのではないであろうか。非常に卑怯な言い回しにのように感じられる。
|