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自分とは?自分を表現しない生き方と自分を表現する生き方
生き方
自分の体がすっぽりと入るくらい大きい箱に、自分を入れます。
そして、箱の蓋を閉め、ガムテープで四隅を止め、すべての面に蝋を垂らして塗り固め、密閉してしまいます。
次に、その箱を会社という、更に大きな箱に入れてしまいます。
当然のごとく、その箱の表面には年数が経つにつれて、埃が溜まっていきます。
その埃こそ、会社でしか通用しない、知識やノウハウ、技術、表面的人間関係なのです。
世間では通用しませんが、会社の中では、無くては生きて行けないほど、重要なものです。
会社において、日々降り掛かる火の粉は、降り積もった埃が、振り払ってくれます。
会社という箱の中では、自らが箱の外に出るまでもなく、表面上の埃だけで、あらゆることに対処出来ます。
出来ると言いますか、自分が箱から出ない方が、うまく事が運び、角が立たず、丸く収まり、その方が、スマートであり、社会人らしい振る舞いなのです。
たまには、箱から脱兎のごとく飛び出して、殴り掛かったり、噛み付いてみたり、そこまでしなくても、自分の考え方を主張してみたい衝動にも駆られますが、会社の箱に居る以上、自らを覆う箱から出ることは許されません。
正直、自分を出さないことが、これほどの苦痛だとは思いませんでした。
嫌な上司の言うことにも、作り笑顔で従わなければならないし、間違っていると思えることも、意見することは出来ない、日々これの連続、自分をひらすら殺す人生が、60歳まで続くのです。
自分というものは、一体どこへ行ってしまったのか、自分というものを現世では表現出来ずに、墓場まで持って行かなければならないのか。
生まれてから、死に至るまで、自分というものがないのが自分なのでしょうか。
自分というものが無い、というのが幻想で、箱に閉じ込めたままの自分が、本来の自分というものなのでしょうか。
悶々とするストレスと、自分を出さない苦痛、サラリーマンとは、これを選ばざるを得ない、と申しますか、自らの意志で選択している人々の集まりなのです。
一方、会社の箱に入らずに、従って、自分を覆い隠す箱も必要がなく、何年経っても、お決まりの埃など溜まらないという人々が、実際に多く存在します。
行動の拠り所となるオリジナルの考え方と、生身の自分だけが頼りであって、日々、如何にして自分の個性を表現するかに苦心しています。
人それぞれが、それぞれ同じように苦労を味わい、多忙を極めている訳ですが、同質でないことが見て取れます。
この世の中は、どのように生きようが、忙しく、苦労が付き物です。
「本来の自分とは、一体何だろう」なんて面倒臭いことは考えずに、生きて行くのも、ひとつの手ですが、その生き方に、自分を表現しない生き方と、自分を表現する生き方が存在するようです。
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