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いじめの法律相談?なぜいじめ法律相談?いじめ法律の怪?
いじめの法律相談
そもそもなぜいじめはあるのか?
我らの人間としての汚い部分を明らかにすればその答えは導かれるだろうか。
なんだか怖いけど、なぜいじめるのかは我らの恐ろしい心に問うてみるしかない。
我らの残酷な心しか、なぜいじめるのかに対する答えを出してくれるものはない。
そして最後にいじめの法律相談となる。
さりとて、法律書をいくら探してもいじめなんて罪名はない。
脅迫罪、強要罪、暴行罪などはあるけれど、いじめなんてものはいじめ法律相談書には書かれていないのだ。
だから、終わりを考えるより初めを考えてしまう。
いろいろ考えてみたよ。
いじめがなぜあるのかってさ。
人はなぜいじまるのかを。
ほぼ結論的には、人は減点法で人を見るからじゃないだろうかと。
そして結論的には、教育その他の社会のシステムが減点法で成り立っているからじゃないだろうかと。
当然に、減点法で教育されたら生徒は減点法で物事を見るようになる。
そうなれば、人はまず人のいい点を褒めはしないだろう。 まずは、欠点を探し出しけなすことに精出すことになる。
そもそも教師というものは生徒のいい点なんかを褒めたりはしない。
それどころか、みんなと同じじゃないという点を捕まえて、お前のいいと言われているものは極度に悪いとこっぴどく叱責してくることになる。
しかも生徒の自由奔放な感情の発露は、細かな文法間違いの指摘によって発言しようとする意欲を削ぎ落とされる。
また、言葉自体の間違いの指摘によって純粋な学究心までもが傷付けられる。 日本人が、日本語の議論や英語全般が苦手な理由はここにあるのだろう。
日本人の創造力不足はここに発している。
そして日本人の自信のなさ、勇気のなさへ至ってるのである。
孔子論語にていわくである。
「己に如(し)かざる者を友とすることなかれ」、自分に及ばない者は友人にするなかれ、と。
減点法で教育を受けた者が社会に出たからって減点法人間には変わりはない。
学生の頃からお互いに成長がなければ、減点法の友達は減点法のままであり、かりに卒業後20年間お互いに成長がなかったとしても、その間はずっと友達でいられる理屈となる。
さて、このことはいいことなのだろうか。 それとも悪いことであろうか。
もし一方が成長を遂げて加点法という視点を獲得していたとしたら、孔子の教え通りでいけば、自分以下の減点法の友を友とするなかれ、となるのである。
人の長所を褒めて伸ばしてあげようとする加点法である。 こんな人が減点法の友と友達でいられるわけがない。
だから加点法を獲得した友は加点法を持つ新たな友を探す新たな局面へと旅立っていくしかない。
残された減点法の友は、やはりあまりものの減点法の友と共に思いで話に花を咲かせ愚痴り合ってお互いの貴重な時間を減算させていくのである。
ところで、減点法の友同士が本当に友達かと言えば実はそうでもない。
昔話と愚痴という点ではお互いに共通するのだけれど、相手の欠点を指摘するという減点法の本領部分で共鳴してしまうからだ。
放っておけば、減点法の友達同士はお互いにいじめ合い傷付け合うことに行き着くのである。
なぜいじめは存在するか?
の答えがこれである。
だからどうだろうか。 いじめ解決の糸口は加点法獲得にあると言えるんじゃないだろうか。
そして付き合うべき人間の峻別にあると言えるのではないだろうか。 と、そう思うのである。
さて、いじめと法律である。
いじめのトラップにいったん引っかかるとに法律ではどうも裁けないようである。
だから注意をして友達選びをしようではないかと遠大な注意が必要となってくる。
私は他人の文章を直したりは決してしないけれど、こんな私も、もちろん学校ではよく指摘されたものである。
学校の文章指摘減点法は社会に出て発展し、会社においては個性指摘減点法と変化してより一層ひどくなってしまった。
会社では個性の塊である他人の文章から個性を削ぎ落すことが仕事として成立してしまったのである。
要するに、文章をあーでもないこーでもないといじくりまわして原形をとどめないようにしてしまう。
4〜5人の上司がいじくりまわした挙句の果ては、いちばん偉い上司のお出ましとなってそのすべてを訂正するわけである。
減点法の滑稽さはここに発揮されたわけだけど、減点法人間社会では、真面目な話、これらのすべてが重要な仕事なのである。
誰でも欠点の10や20は持っている。
逆に長所は1つや2つだろうか。
そして学校とは、価値観構築前の生徒数十人ずつをクラスに詰め込んだものをいう。
クラスみんなは友達なんだと洗脳され、減点法において生徒の長所を欠点だと指摘して潰していくのである。
当の生徒には価値観なんかはまだ芽生えてはいない。
だから、みんな友達なんだという教えは何の抵抗もなく素直に脳ミソに入っていってしまうのだ。
みんな価値観も何もないからっぽ人間。 だから、減点法という物の見方はスッと脳細胞へと浸透していってしまう。
「みんな友達」と「減点法」。
こんなのを入れられたら、友達とは表面上の薄っぺらなところで成立するものでありは、内部で「いじめいじめられ」というのと激しく化学反応を起こしてしまう。
人はなぜいじめるのか?
その答えがここにある。
学校での教えは社会では常識となる。
いじめいじめられるという所が社会というものだから、人間はいじめころされぬように強くあらなければならないという教訓が自然と生まれ流布してしまう。
いじめっ子なんかに負けるものか、と、いじめに対するいじめ抵抗術もよりいっそう磨かれていくことになる。
文章という、内容が分かればどのように表現したっていいというものまでもが、いじめの対象となるほどに磨かれていくのだ。
こうなってしまえば、もはや欠点は10や20ではすまされない。
文章という個性の塊までもが欠点とされるのだ、欠点は無限に存在できてしまうことになってしまった。
「ほんとうに文章ひとつも書けないのか」と偉そうに言うことが地位の高い給料のいい仕事となり得てしまうのだ。
減点法社会でふん反り返る上司。
果して彼はあなた以上なのだろうか。
それとも以下だろうか。 どっちなのだろう。
何れにせよ、こんな上司のいじめを裁く法律は存在しえない。
人はなぜいじめるのか。
なぜいじめはあるのか。
いずれにせよ忍耐力はつけたほうがよさそうだ。
なぜいじめはあるのか?に耐性をつけなければ生き辛かろうよ。
いじめの法律知識もどうも必要ないようだ。
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