怠惰で多忙な人生設計!無駄な時間を浪費中
人生は一度きりしかなく、人生設計する間もないほどに短くて儚(はかな)い。人生の短さを嘆く人々が、無駄な時間を浪費することを「怠惰で多忙な人生設計」と言う。
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どうでもいいことに、時間と労力と、人生を掛けるくらいなら もっと価値辞典を!
己の人生は、言うまでもなく一度きりしかなく、それから人生設計する間もないほどに短くて儚(はかな)い。
そんな人生の短さを嘆く人々が、無駄な時間を浪費することを「怠惰で多忙な人生設計」と言う。
酒に溺れ、色欲を貪り、名誉欲を満たそうと足掻(あが)き、そして過去の思い出や成功体験に浸る。
最近ふと思う。子供の頃は何になりたかったのだろうか、と。
どんな人間になりたかったのだろうか、と。
最近こうも思う。
例えば、もし、自分が今日突然死んだとしたら、どうなるんだろうか、と。
自分が死んで、この世の中から居なくなったら、誰が困るんだろうか、と。
たぶん、家族は泣くだろう。たぶん。
他にも涙を流してくれる人は、何人か居る筈だ。恐らく。
でも仕事なんて、困るのもせいぜい2〜3日のことだろう。きっと。
また、この席に違う人間が座るだけのことなのだ。
自分の代わりなんてものは、この世の中には、掃いて捨てるほど居るのだ。
確かに、自分は、誰にでも出来るだろうと思われる仕事をしてきた。
自分の個性や能力をお金に換えるのではなく、1日のうちの8時間、人生の、二度とない貴重な人生の、3分の1をお金に換えてきたのだ。
もともと、余人を以って代え難い、そのような人生を歩んでこなかった自分が悪いのは分かっている。
例えば、芸術家とかスポーツ選手とか、そんなんじゃなくても、もっとちゃんとした、その人間にしかできないような、そのような仕事をしている人、そのような人は、自分のような戯(たわ)けた気持ちにはならないのだろう。
それは誰のせいでもない。
社会のせいでもない。
きっと、いや間違いなく自分のせいなのだ。
特別な才能もなく、今ある才能も磨かず、何かに向かって死ぬ気で努力してこなかった、自分のせいなのだ。
「いったい何年同じ仕事をやっているのか」、「いい加減甘えたことを言わずに、プロになってくれ」と、言われることもある。
でも、何年やろうが、何十年やろうが、今の仕事のプロにはなれないし、好きにはなれないし、一生懸命にはなれないし、命は掛けられないのだ。
それが何故なのかは、自分が一番良く知っている。
こんな仕事でプロになっても、一体何になるのかと腹の中で思っているからだ。
どうして世の中に会社があり、会社の中にこの仕事があるのかと言えば、要するに必要だから、必要だから全てが存在していて、だから自分も雇われているのだ。
でも、必要なのは、社会全体を眺めた結果言えることであって、自分の人生にとっては、こんな仕事必要でも何でもなく、ましてや好きでも何でもないのだ。
自分の人生は、ただ毎日を怠惰な多忙で埋め尽くしながら、生き長らえているようなものであって、死を待っているに等しいのだ。
“生き長らえる”ではなく“生きる”で在りたい、そして、心の底から湧き上がる熱い思いで“生きたい”。
「嫌なら辞めろ。」
「嫌々働いている人間が、一番腹が立つ。」
「こんな仕事って、おまえは思っているけれど、やりたいと思っている人間はいっぱい居るのだ。」
「おまえが辞めれば、その人が働ける。」
「世の中、みんながつまらないと思っている。」
「男も女も、老いも若きも、お前も俺も、つまらないには変わりない。」
「それでも、文句言わずに歯を食いしばって我慢してやっているのだ。」
触れてはいけないことをズバリ言い、嫌味な言い方で悔しいけれど、たぶん、恐らく、いや全くそのとおりである。
会社では、組織の論理と個人の価値観がぶつかり合ったりもするけれど、自分にとっては何の価値もないと思われることを、会社のためにやらなければならないなんてことは、腐る程ある。
「組織の論理」には、個人の価値観なんてどうでもよくて、好きか嫌いかなんて、個人にとって価値があるかどうかなんて、そんなものはまったくどうでもよいのだ。
会社の歯車のひとつとして、会社が決めた仕事を、没個性でこなすだけなのだ。
会社での人事異動なんて、運みたいなもの?!
「なんで自分が、こんな所へ出向になったんだろう」と思っても、それは、自分の人生と自分のやりたいことを、会社任せ、他人任せにしてきた自分のせいなのである。
別に、誰からも強制はされていない。
自分で決断した結果、と言うよりも、みんなのやるとおりやってきた結果であり、自分が何をやりたいかを考えなかった結果なのだ。
子供の頃、気が付いてみると受験戦争の真っ只中、みんなが受験をするから、自分が何をしたいかなんて考えもせず、高校、大学へと進んできた。
少しでも、いい学校へ行こうとして勉強をしてきた。
大学に入れば入ったで、みんなは少しでもいい会社に就職したいと言い出す。
そして、私も何も考えずに会社へ就職。
会社に入ったら入ったで、みんなは少しでも出世したいと言う。
何だかんだで、結局何も考えずに、与えられた仕事を、ただこなしているだけなのだ。
退職したら、今度はみんなは何を言うのだろうか。
死ぬまで趣味を楽しむ、とでも言うのだろうか。
それとも、その時になって初めて、個人の価値観の出番なのだろうか。
その時から、自分の本当の人生が始まるのだろうか。
趣味やスポーツ、ボランティア、・・・。
そして、死ぬ間際には、みんな何て言うのだろうか。
「自分は、みんなが言うとおりに生きてきた。」
「人生が何かなんて考えなかった。」
「自分のやりたいことは、一度として挑戦しなかった。」
「でも、その日一日、趣味とかスポーツとかをして、楽しく暮らしてきた。」
とでも言うのだろうか。
こんなものが社会人、みんなの言う常識人なのだろうか。
「何故、働くか?」
こんな質問をすると、みんなは「生活のため、家族のため」と答えるだろう。
「生活のため、家族のため」と言うが、でも結局は、突き詰めて言えば、月収20〜30万円のためなのだ。
なんだかんだ言って、20〜30万円のお金のために働いているのだ。
その程度のお金のために、嫌いなことをしろとは、誰も言っていないし強制もしていない。
20〜30万円程度のお金のためなら、考えれば、好きな仕事や好きな方向の仕事で稼げる筈なのだ。
実際は、「生活のため、家族のため」ではなくて、自分が考えて来なかった、決断して来なかったことへの言い訳なのだ。
「20〜30万円程度」が失礼な表現であるのなら、「生活できる程度」と言い換えても良いだろう。
インドのマハトマ・ガンジーは、「変化を求めるなら、まず自ら変化せよ」と、確か言っていたような。
自らが変化しない限り、環境は変化しないし、幸福が急に天から降って来るなんてことは絶対にないのだ。
何かしたい。
自分が変われて、自分の人生が変わる程の衝撃的な出来事なんて、もうこの現世には無いかもしれないけど。
でも、何かしたい。
何もかも忘れる程、何かに夢中になってみたい。
心の底から、怒ったり、笑ったり、泣いたりしたい。
「自分は、ここに居るんだー、なぜ無視するー、こっちを見ろー。」
と、叫びたい。これ程までに追い込まれた精神状態を誰かに分かって欲しい。
自分には恋愛しか、もうこんな気持ちを満たしてくれる出来事は、残されていないのだろうか。
ヘーゲルという人が、「一人の愛する妻を得て、私の地上の目標は達成された」と言ったように、恋愛には、自分らしさや自分の人生を“生きる”という思いを満たしてくれる、何かが存在している。
確かにそうなのだけれども、自分には、もうそれだけしか残されていないのだろうか。
恋愛なんか、夢中になればなったで、何とか気分も紛れたりもするけれども、自分が何をしたいかなんてことは忘れさせてくれたりもするけれど、でも、そんなことも一時的なもの。
習い事でキャリアアップを目指してみたり、趣味系のサークルに参加して仲間と涙が出るほど笑ってみたり、はしゃいでみたり、でも、それってやっぱり一瞬のことでしかないのだ。
そんなことをして、一体何になるのだろうか。何も解決せずに時間だけが減ってゆくだけ。
さー寄こせ、一時的でない生き甲斐みたいなものが欲しいんだ。
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