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皮肉!冷笑!嘲笑!シニカルばかりが目に付くまた癇に障る!
皮肉!冷笑!嘲笑!
シニカルが目に付く!
また癇に障る!
Q
はじめまして。 乱文で恐縮だが、一読願いたい。
人間の作った世の中は複雑だが、人間自身は単純だ。 それを難解なように見せかけているのは人間自身の「弱さ」だ。
一見そういった部分にHP内で言及しているように思わせているが言葉の言い回しに凝っているだけで読んで何かの指針になるようには思えない。
そう、ポジティブな方向性を指し示しているようで、実は言葉尻を追っていくならシニカルばかりが目に付き、また癇に障る。
人生に対して斜めに構えた「知ったかぶり」のように思えてしまうのだ。
何より「価値観」の可能性拡大を標榜しているようで作者の価値を押し付けているようにも感じた。
新しい価値観の構築へのシフトを促しているように見えて既存の考えうる価値観のうちもっとも正当化しやすいものに的を絞っているだけのようにも感じられる。
過去にどこかで誰かが放った前例のある説法を作り変えて放っているだけのようだ。
勉強不足、経験不足、なにより閉塞された賢しさばかりで前進しようという気概に真実が感じられない。
このHPの作者は自分の作ったドキュメントに責任をもっているのか? 本当に自分の言葉をネットに流しているのか?
もちろん読んで影響を受けた人間に責任を負う必要はないが、言葉に重みを感じることが出来ない。
反対意見や冷やかしを弾劾する支持者、何もかも息苦しい。
得るだけが人生ではない。
失うことのほうが多い。
「やれば出来る」なんて言葉は説法としては存在出来ても行動の方程式には存在しない、行動の2択は「やる」か「やらない」だけだ。
でたらめに生きようと、正直に生きようと時間は流れていく。 ならばどうすればよい?
斜に構えていても傾いた人生は直らん。 まず、真実を知り、受け入れることではないのか?
悪の根源は情であるかもしれないし、善の結果が不幸をもたらすかもしれない。
幸せになりたいとは誰もが思う。
だが「幸福」という言葉すら知らない人々が世界には大勢居るということを一度でも想像した事があるのか?
反論いつでもどうぞ。
(Z 2003.01.20月07:06:32)
A
お互いに得るものは、無かったみたいです。 癇に障るのなら、癇に障らないものを、お読みすることをお勧め致します。
それ以前に、あなたが何を読むかはまったくの自由。
あなたは自らの選択で、癇に障るものを読んでいるのです。
お互い何十年も生きて来て、自分なりの、生き方、考え方、物の見方を、獲得し、確立してきた者同士です。
その物の見方に対して、当方に反論なんて有ろう筈がございませんし、元より、反論するメールアドレス自体も提示されておりません。
ここで例え反論したとしても、癇に障るものからの反論は、これもまた、あなたにとっては癇に障るものである筈です。
それなのに、「反論いつでもどうぞ」とは、コントロールできない相反する心理なのでしょうか。
「反対意見や冷やかしを弾劾する支持者、何もかも息苦しい」という表現を見れば、コントロールできない他人からの影響を受けて、自らもコントロール不能に陥っているかのように見えます。
また、「だが「幸福」という言葉すら知らない人々が世界には大勢居るということを一度でも想像した事があるのか?」という問いかけに対して、当方が答えたとして、何がどうなるというのでしょう。
仮に、何回か受け答えをしたとしましょう。
おそらく、お互いに何時間かを、それに費やす羽目になることでしょうが、そこから得られるものが、お互いの人生のプラスになるとは思えません。
あなた流に、「環境破壊を想像したことがあるか?」、「有害化学物質の恐怖を想像したことがあるか?」、「日本の未来を想像したことがあるか?」、「したことがあるか?」、「したことがあるか?」、「したことがあるか?」・・・と、永遠に続きそうな投げ掛けを行うことで、何が得られるというのでしょう。
さて、生き方、考え方、物の見方を、誰に恥入る事も無く、広く発信することには、あなたにも異論は無いところでしょう。
勇気を持って、自由に発露している個性を、ひとつひとつ叩いて、萎縮させ、潰していくのではなくて、温かい心をもって、見守り、伸ばして上げるという考え方は如何でしょうか。
叩くばかりでは、個性を表現する人間が居なくなる、いや、それくらいで諦めるようでは最初からしない方が良い、と言われるかもしれませんが、少なくとも一瞬立ち止まらせることになるのでは。
癇に障るものを、個別に撃破すること、そういう生き方をされているのなら、それはそれで、当方には何の異論もございません。
得るものが無い者同士が、人間関係を築く必要は無いでしょう。
生き方、考え方、物の見方が違う者同士、お互い係わり合いを持つ必要は無いでしょう。
少なくても、当方にはその時間的余裕はありません。
また、ここで、お互いの、物の見方の摺り合わせをする必要も無いでしょう。
お互い、違った物の見方を確立しているのですから、それぞれが、それぞれで良いではないですか。
それぞれに特徴があり、それぞれに尊重されるべき個性かと存じます。
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