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お互いに得るものは、無かったみたいです。
癇に障るのなら、癇に障らないものを、お読みすることをお勧め致します。
それ以前に、あなたが何を読むかはまったくの自由。あなたは自らの選択で、癇に障るものを読んでいるのです。
お互い何十年も生きて来て、自分なりの、生き方、考え方、物の見方を、獲得し、確立してきた者同士です。
その物の見方に対して、当方に反論なんて有ろう筈がございませんし、元より、反論するメールアドレス自体も提示されておりません。
ここで例え反論したとしても、癇に障るものからの反論は、これもまた、あなたにとっては癇に障るものである筈です。
それなのに、「反論いつでもどうぞ」とは、コントロールできない相反する心理なのでしょうか。
「反対意見や冷やかしを弾劾する支持者、何もかも息苦しい」という表現を見れば、コントロールできない他人からの影響を受けて、自らもコントロール不能に陥っているかのように見えます。
また、「だが「幸福」という言葉すら知らない人々が世界には大勢居るということを一度でも想像した事があるのか?」という問いかけに対して、当方が答えたとして、何がどうなるというのでしょう。
仮に、何回か受け答えをしたとしましょう。
おそらく、お互いに何時間かを、それに費やす羽目になることでしょうが、そこから得られるものが、お互いの人生のプラスになるとは思えません。
あなた流に、「環境破壊を想像したことがあるか?」、「有害化学物質の恐怖を想像したことがあるか?」、「日本の未来を想像したことがあるか?」、「したことがあるか?」、「したことがあるか?」、「したことがあるか?」・・・と、永遠に続きそうな投げ掛けを行うことで、何が得られるというのでしょう。
さて、生き方、考え方、物の見方を、誰に恥入る事も無く、広く発信することには、あなたにも異論は無いところでしょう。
勇気を持って、自由に発露している個性を、ひとつひとつ叩いて、萎縮させ、潰していくのではなくて、温かい心をもって、見守り、伸ばして上げるという考え方は如何でしょうか。
叩くばかりでは、個性を表現する人間が居なくなる、いや、それくらいで諦めるようでは最初からしない方が良い、と言われるかもしれませんが、少なくとも一瞬立ち止まらせることになるのでは。
癇に障るものを、個別に撃破すること、そういう生き方をされているのなら、それはそれで、当方には何の異論もございません。
得るものが無い者同士が、人間関係を築く必要は無いでしょう。
生き方、考え方、物の見方が違う者同士、お互い係わり合いを持つ必要は無いでしょう。
少なくても、当方にはその時間的余裕はありません。
また、ここで、お互いの、物の見方の摺り合わせをする必要も無いでしょう。
お互い、違った物の見方を確立しているのですから、それぞれが、それぞれで良いではないですか。
それぞれに特徴があり、それぞれに尊重されるべき個性かと存じます。
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