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ハンセン病差別と正しい知識偏見とハンセン病差別!

ハンセン病差別への正しい認識が世間の常識となりますように。ハンセン病回復者が健在なうちに生まれ故郷へ自然体で帰れるようになる日がくることを切に願うばかり。ハンセン病差別がなくなりますように。

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ハンセン病差別と正しい知識!偏見とハンセン病差別!


ハンセン病差別



(あるハンセン病患者の話)

人は体の美醜によって人格をも評価するものである。
人は見た目によりハンセン病差別をする。



「あなたの息子さんはらい病です」
と医者は母を奈落の底へ突き落した。

「保健所には連絡しておきますから」
私はしばらく何が起こっているのか判然としないままに、しばし時が過ぎ行く。

母は真っ青になって何もしゃべろうとはしない。
いや、しゃべられないのだ。
絶句してただ泣くのみである。

この様子はただごとじゃない。
私は大変なことしてしまった。

母をも震え上がらせるこの恐ろしい病気よ。
家族とはもうこれ以上一緒にはいられないのだろうか。
子どもといえどもこの尋常じゃない事態に思いが先走るのである。



帰りの道すがらも母は何もしゃべろうとはしなかった。
私は黙って母の後をついていくしかない。

こんなにも母との距離を感じたことはない。
とてつもなく長い時間が流れていくのを感じるしかない。

帰宅後、母はすぐに父に報告をした。
やはり父をも真っ青に、そして何もしゃべらなくしてしまった。

家族に迷惑をかけている状況は子ども心にも苦しく、3日間泣きくれ、これで今生の別れであると覚悟を決めた。

母は私の旅支度をしてくれた。
父は無言でお金をくれた。

近所への多少の気配りであろうか。
夜中になって保健所の職員が私を迎えにやってきたのだ。

職員は土足で家に上がり込み真っ白になるまで消毒をした。
そして、「2度とここには帰ってこられないから」と、私は強制的に連行される。
もはや父母の顔は見ることが出来ない。



法律によるハンセン病差別
らい病は今はハンセン病といい関連する法律は次の通り。

癩予防ニ関スル件(明治40年)
癩予防法(昭和6年)

らい予防法(昭和28年)

らい予防法は、らいの予防及びらい患者に対する適正な医療の普及を図ることによつて、らいが個人的にも社会的にも害を及ぼすことを防止し、もつて公共の福祉を増進することを目的として制定された法律である。



らい予防法の廃止に関する法律(平成8年4月1日)



ハンセン病療養所入所者等に対する補償金の支給等に関する法律
(平成13年6月22日)

この法律の前文は次の通りである。

ハンセン病の患者は、これまで、偏見と差別の中で多大の苦痛と苦難を強いられてきた。

我が国においては、昭和28年制定の「らい予防法」においても引き続きハンセン病の患者に対する隔離政策がとられ、加えて、昭和30年代に至ってハンセン病に対するそれまでの認識の誤りが明白となったにもかかわらず、なお、依然としてハンセン病に対する誤った認識が改められることなく、隔離政策の変更も行われることなく、ハンセン病の患者であった者等にいたずらに耐え難い苦痛と苦難を継続せしめるままに経過し、ようやく「らい予防法の廃止に関する法律」が施行されたのは平成8年であった。

我らは、これらの悲惨な事実を悔悟と反省の念を込めて深刻に受け止め、深くおわびするとともに、ハンセン病の患者であった者等に対するいわれのない偏見を根絶する決意を新たにするものである。

ここに、ハンセン病の患者であった者等のいやし難い心身の傷跡の回復と今後の生活の平穏に資することを希求して、ハンセン病療養所入所者等がこれまでに被った精神的苦痛を慰謝するとともに、ハンセン病の患者であった者等の名誉の回復及び福祉の増進を図り、あわせて、死没者に対する追悼の意を表するため、この法律を制定する。



かように、ご近所さんの知らないうちに、ハンセン病患者というものは静かにどこかへと消えていくのである。

小説や映画「砂の器」に描かれていたように、人知れずお遍路の旅に出るかのように。

また、明治40年の「癩予防ニ関スル件」という法律で放浪するらい病患者を強制的に隔離したかのように。

どこの家にらい病患者が出たというのは秘密であったが、あそこの家の子どもはいつの間にどこかへ行ってしまったのだろうかと噂は自然に立つのである。



私の歩いた後を消毒をしながら保健所の職員がついてくる。
しばらくするとトラックが待っていた。

いいか、お前は後ろに乗るんだ。
寒風吹きさらす中、荷台に数時間である。
手足はこごえて感覚は消え失せた。

らい予防法での決まりごとなのであろうか。
駅に着くと、「らい病患者護送中」という幕を掲げた列車が待っていた。
「らいが通るぞー」と、周囲に注意が払われ、やはり私の後は消毒されていく。

私の乗るのは一番最後につながれているむしろが敷かれた屋根のない貨車である。

寒いなんてものじゃないぞ。
いや実際、私は物じゃないんだから。
こうして寒くて震えもするのだ。

列車の次は船である。
ポンポン船につながれた引き船には監視されながら私だけが乗ったのだった。



ちなみに、
厚生労働省資料によれば、平成20年5月1日現在の全国ハンセン病療養所別入所者数は次のとおりである。

国立療養所松丘保養園 青森県青森市 147人
国立療養所東北新生園 宮城県登米市 144人
国立療養所栗生楽泉園 群馬県吾妻郡草津町 169人
国立療養所多磨全生園 東京都東村山市 319人

国立駿河療養所 静岡県御殿場市 112人
国立療養所長島愛生園 岡山県瀬戸内市邑久町虫明 369人
国立療養所邑久光明園 岡山県瀬戸内市邑久町長島 215人
国立療養所大島青松園 香川県高松市庵治町 127人

国立療養所菊池恵楓園 熊本県合志市 426人
国立療養所星塚敬愛園 鹿児島県鹿屋市 265人
国立療養所奄美和光園 鹿児島県奄美市 56人
国立療養所沖縄愛楽園 沖縄県名護市 276人
国立療養所宮古南静園 沖縄県宮古島市 92人

2,717人
平均年齢 国立13園 79.5歳



ハンセン病療養所につくと脱走防止のために持ち物はすべて没収された。
2度とここからは出られないので、世間で通用する持ち物は必要はないということである。

火葬場も納骨堂もここにはある。
ということは死んでも外には出られないということだ。
刑務所じゃないのに、なぜだか監房だって備わってる。

結核患者のように治れば元に帰れるというわけにはいかないようだ、ここは。

ハンセン病は平成8年にらい予防法が廃止されるまで、治っても故郷に帰してくれなかった病気なのである。

という仕組みだから、お金は施設でしか通用しない商品券に両替された。

また、どこそこの町のどこそこの家の者というのが分かってしまえば、残された家族ははげしい差別を受けてしまう。

だから、故郷の家族を守るために施設では偽名を生涯使うことになっている。



ハンセン病とは、同じ家族から発病することがあったから、親から子へ遺伝する病気だと考えられてきた。

でも、ハンセン病は遺伝する病気ではなく一種の感染症なのである。
感染力が弱いため濃厚な接触でないかぎりうつりはしない。

夫婦関係のような接触は大丈夫で、授乳期に母親の噛み砕いた授乳食を何度も繰り返し多量に摂取した場合などにうつったのである。

でも感染したところで発病するとは限らない。

発病力の弱さゆえに、栄養失調、劣悪な衛生環境、戦時のような強いストレス、という3つの条件が揃わなければ発病することはなかったのである。

乳飲み児に入り込んだ菌は、12〜13才の声変わり時期を待ったのであった。



かつて国はらい病患者を強制的に隔離したためにうつりやすく恐ろしい病気だという誤ったイメージを世間に植え付けてしまった。

また、らい病とは、鼻が落ち、目がなくなり、口が変形して手足も落ちるという病気のため、人は目に見える違和感を嫌い恐れ差別してきた。

昭和21年には、特効薬プロミンの開発で簡単に治癒する病気とはなったものの、病気治癒後もずっと隔離され続けた。

平成8年、らい予防法は廃止となったが、すでに顔や手足には大きな後遺症が残っていたことから、故郷に帰ることはできなかった。

第一、療養所に隔離されて60年という人生を失っているのだ、故郷に帰るったってそう容易なことではない。

家族との絆は分断され、長年醸成されてきた激しい差別心は消えるわけもなく、正しい知識の普及にも時間を要するだろうし、こちらの方だって生活力や社会性は隔離によってすっかりと潰されてしまっているのだから。



ハンセン病差別とはだいたい無知から来るものだ。

そして正しく理解すればハンセン病差別する合理的な理由なんてものはどこにも存在しないと分かってしまうものなのだ。

と、そう歴史は証明している。
でも、後から証明されたところで後の祭りなわけである。

現にハンセン病差別され続けた者にとっては堪ったもんじゃないのだ。
いや実際、ハンセン病差別は尊い人間の命をも断ってきている。
げに、ハンセン病差別とは恐ろしいものなのである。



私は病室へ通された。
そこは20畳敷の部屋で20人の患者が入れられている。
男20人で一部屋、女20人で一部屋となる。

両目がくぼんでない。
指がない。
足首がない。
鼻が落ちている。
口が変形している。

そんな人々がきっちりとひとり一畳に納まった共同生活の始まりである。

指定されたこの畳で一生を起き、一生を寝るのである。
この一畳が私のついのすみかなのだ。



療養所に入って、大分経ってから回診が行われた。

医師や看護師が合羽を着て、長靴にマスク、帽子と完全防備で部屋に土足で入ってきて、ゴム手袋のまま診察するのである。

しかも患者500人に対して、職員100人、看護師30人と明らかな人員不足ときている。

だから、軽症の患者は重い患者の世話や清掃などの仕事をタバコ一個分の日給で半強制的にさせられたのだ。

刑務所には入ったことはないが、まるで刑務所の罪人のような扱いである。



20歳となれば、園内の中で結婚が許された。

結婚の条件は子どもが出来ないようにする断種手術である。
今も消えざるこの屈辱。
それを耐え忍んで結婚に至る。

20人部屋の12〜13人が結婚しているだろうか。
結婚生活は通い婚。

夜10時を過ぎたら女性の部屋へ通うのである。
こうして20畳の部屋に男女合わせて33人が夫婦生活を営んだ。

これは人間がつむぎだす光景であろうか。
まるで動物のような、そう、まったくと言っていいほどに動物のような扱いである。



平成10年、社会復帰支援策の不十分さや、平成8年のらい予防法廃止時における国の謝罪に疑問を持った入所者13人が、熊本地裁へ強制隔離政策で人権を侵害されたなどとしてハンセン病国家賠償請求訴訟をおこした。

原告は徐々に数を増やし裁判も東京、岡山へと拡大していった。

平成13年5月、原告側の主張がほとんど認められる判決が言い渡され、国は控訴を断念し、熊本地裁判決は確定する。

平成13年6月、入所者等が被った精神的苦痛に対する補償金の支給、名誉の回復について定めた「ハンセン病療養所入所者等に対する補償金の支給等に関する法律」が施行されるに至る。

こうして、元ハンセン病患者のことを人間回復、名誉回復を成し遂げたという意味から回復者と呼ぶようになる。



現在の全国ハンセン病療養所では、職員配置も手厚く、住環境も劇的に改善されたために、回復者は非常に穏やかな生活をしている。

回復者は重度の障害をもっているものの明るく前向きであり、お互いにボランティア活動をして助け合うという精神や、周囲の人々に感謝するという気持ちを持っている。

目も手も足もない人が、舌で点字を覚えて教養を高めるという好奇心や向上心も持っている。

しかし、地域での偏見や差別はいまだに根強く、生きているうちには故郷へは帰れないだろうと思う者もいる。

死んで灰になって風にのって故郷へ帰りたい、だから灰は海にまいてほしいという者もいる。

60年目の一時里帰りでふる里の風を感じたという者。

回復者の平均年齢はすでに80歳。
今もなお全国には故郷に帰れぬ2700余名の回復者が療養所で生活を送るのだ。


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