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自分を変える決断の最後の障害

自分が変わる決断の最後の障害として、妻へ相談をすれば、妻が反対し、妻が反対しなくても、妻の父母へと話が伝わり、彼らがしゃしゃり出て来て反対をするのです。

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自分を変える決断の最後の障害


自分を変える


バブルが崩壊し、そして、平成の大不況がやって来るまで、我々日本人は、出世とお金のために脇目も振らずに頑張りました。

しかし、今や体は脱力し、頭は茫然とし、心は敗北感や無力感で一杯です。

崩壊は、泡ばかりではなく、掛け値無しの実物経済、すなわち地に足の着いた現物の生活そのものをも、脅かしそうな勢いです。




このように、「リアルの崩壊」さえも予想される今日は、差し詰め日本崩壊前夜、日本没落寸前と言ったところでしょうか。

遥か昔の歴史を紐解けば、エジプト、ギリシャ、ローマ・・・、近現代の、欧米、日本、アジアへと、バトンがリレーされるかの如く、発展途上にあるものはいつかは発展し、発展したものはいつかは衰えるという、衰者必盛、盛者必衰の理(ことわり)を表しています。




中国、韓国、台湾などのアジア諸国では、今や日本人が失ってしまったと言っても良い、出世とお金のためにモーレツに働く、ハングリーな姿を見ることが出来ます。

昔、日本には「安くて良い物を作って何が悪い、作らない方が悪いのだ」、という声も聞えて来そうなほどの勢いがあり、「絶対に勝ってやるぞ」という気概にも満ち満ちていたものですが、それらは、アジア諸国へと完全に移ってしまったようです。




さて、「出世やお金のためにモーレツに働く」というモノサシを、アジア諸国に手渡してしまった今日の日本には、一体何のモノサシが残されていると言うのでしょうか。

それは、「こんなものだろう」、「こんな程度で良いだろう」・・・そう、恐らくこんな程度のモノサシだろうと思います。

「食って行く、そして、欲しい物を買うお金は既に手に入れた。」
「無理をして、これ以上のお金や物を追い求めることも無いだろう。」

「それ以前に、欲しい物はすべて手に入れてしまった。」
「これ以上、欲しい物なんか何も無い。」




世の経営者達は、欲しい物が何も無いという日本人を相手に、商売をしなければならず、これからは、もはや感動を売るしかないだろう、という最終型企業理念の元に、商品開発をしている模様ですが、物から離れ、企業から離れて考えた場合、個人にとっての最大の感動とは何でしょうか。

「・・・」




人によって無論違うと思いますが、「遣りたいことをする」というのでは如何でしょう。

「遣りたいことが出来る」というのは、確かに感動ではないでしょうか。




それは、出世とお金を得るために、がむしゃらに走り続けた結果、考える暇が無かったり、そこまで考えが至らなかったものであり、気持ち悪いほど物分りが良い言い方ですが、「人生なんてこんなもの、自分なんて所詮こんなものだろう」と諦めていたものなのです。

「これからは、何が何でも遣りたいことをする」というのを、これからの人生のモノサシとして、採用してみては如何でしょう。

仕事選びなどの行動を決めるポイントは、「遣りたい事か否か」になります。




しかし実際に、このモノサシを使って、「いざ転職しよう、遣りたい仕事に鞍替えしよう」とすれば、思わぬ障害が身近に潜んでいることが分かります。

己の決意をほぼ固める段階においては、家族と相談をし、同意や賛同、協力や協働を得た後に、最終的な答えを導き出すものですが、妻へ相談をすれば、妻が反対し、妻が反対しなくても、妻の父母へと話が伝わり、彼らがしゃしゃり出て来て反対をするのです。




また、夫へ相談すれば、夫が反対し、しなくても夫の父母が反対をしたり、自分自らの父母が出てきて反対をしたりするのです。

安定した生活と老後を保障してくれている大企業を辞めてまで、「何故不安定な企業へ移るのか」、「何故連続した順調な人生を、一旦断ち切らなければならないのか」と一喝一蹴され、不思議がられ、何も理解されずに、猛反対されるのです。




彼らは、兎にも角にも変化を好みません。

頭には、まず退職まで会社に居続けることが大前提にあり、その間には、結婚をし、家を建て、子供を儲け、大学まで行かせ、大きな安定した会社に勤めさせる。

そしてまた、結婚をさせ、家を建て、孫を儲け、大学まで行かせ、大きな安定した会社に勤めさせる。




この「変化をしない循環」は何代にも渡って続き、そして、それぞれの人生の最終は、安定した年金生活を獲得することで締め括られるもの、と決められているのです。

これ以外の選択は、許されないと申しますか、体が受け付けないと申しますか、脳みそが受け入れません。




ある日突然、会社が倒産したとします。

しかし、予想に反して、自らはあまり非難されません。

ある程度大きな会社に勤めていたのだから、それは、個人では予測不可能であって、予測できたとしても対応不可能な出来事であり、不慮の事故に遭遇したようなもの、運が悪いとしか言いようが無く、原因は時勢や景気、はたまた国の政策が悪いからだろうと、返って同情され、慰められ、再就職頑張れ、と励まされるのです。

そりゃー、ショックなことはショックのようですが、家族を路頭に迷わせた責任を、家族自体はあまり問わないのです。




しかし、リストラの場合は、これとは少し話が違ってきます。

引き続き働くことが出来る世間の人と比べれば、倒産は、大きな変化には違いありませんが、会社丸ごとの道連れと言いますか、まだ一連の運命を辿る仲間が居ます。

仲間と同じく、徒党を組め、多数に所属でき、群衆に紛れるという、安心感がまだあるのです。

危ないと囁かれていても、最後まで会社にぶら下がり続け、多くの人と同じ人間であり続けることを望み、例えそれが破滅の道であったとしても、問題を先送りし、より多くの人と同じ道を辿っている方が、安心できるのです。




一方、リストラの場合は、謂わば、無能な人間の証明、社会的な死の宣告と申しましょうか、何故あなたが失格者扱いをされなければならないのかを、家族から責め立てられます。

遠い昔の学生時代の、学年にひとり出るか出ないかの落第者の姿が、妻の脳裏を過ぎり、恥ずかしさと敗北感と劣等感で頬を紅潮させた次の瞬間には、悲嘆と不安と怒りで顔を歪めます。




「会社倒産などという変化が起きるのではなく、我が家族には何の変化も無く、みんなが健康で暮らせ、平穏無事に人生を終えることのみを、ひたすら望みたい。」

このように、会社にさえ、潰れることなく永久に存続して欲しいと願っている人間を、説き伏せることは至難の業と言えるでしょう。




そんな家族達の、カチカチに固まってしまっている脳みそに、倒産やリストラのような受動的にではなく、転職のように能動的に変化することを受け入れさせるには、結局、出世とお金を求めてモーレツに突き進んできたのは何故か、それは己及び家族の幸せのためであったこと、そのことを家族に思い出させ、知らなくば知って貰い、そして次に、遣りたいことを遣るのも何故か、これもまた、己及び家族の幸せのためであることを、時間を掛けて切々と訴える必要があります。




家族と幸せを共有し、また、各々それぞれが単独で幸せでありたいのであれば、この難関を突破しないことには始まりません。




堅苦しい物言いですが、変化をしようと思い立ち、思考の進化を遂げた人間の周りには、えてして相談をする人間がひとりも居合わせないというものです。

例えば、あなたが何か新しいことをしようと思い立った時、新しいことにチャレンジせず、従って経験もしていない人間に相談をするでしょうか。

相談をすれば、恐らく、たちまちの内に否定されてしまって、やる気を削がれ潰されてしまうことでしょう。




逆に、例えば、経験済みの人に、転職の相談をしたとします。

無論最終的な判断は己でするしか無いのですが、転職者は、経験談に交えながら、アドバイスや留意点などを的確に盛り込み、何より、「そう思うのなら遣ろうじゃないか」と、後ろ向きではなく、前向きな言葉を添えて、応援し、助けてくれるのです。




そうような良好な人間関係に遭遇するためには、家族や周りの人間に相談するよりは、既に経験済みという、もう一段上の人間に、自らも階段を上って、相談しなければならないのです。

ここでは、「思考の進化」とか「もう一段上の人間」などの言葉を使ってしまいましたが、それは、変化しない人間より、変化する人間の方がレベルが上などの意味では無くて、考え方が変わり、日常から非日常を志向した、との意味合いからのもので、申し上げるまでも無く、変化しようがしまいが、人間の生き方に上下なんて在りません。




何も挑戦せず、何も成し得なかった親の口から、「親の成し得なかった夢を子供に託す」という言葉が聞かれる場合がありますが、正確には、「成し得なかった夢」ではなくて、「何もしていない夢」が正しい表現でしょう。

また、「自分の子供には、好きなことを遣らせたい」、「自分は出来なかったから、子供には自由に遣らせたい」と、世間には、このようなことを言う親も居ますが、幾つかの大きな障害が待ち受けている厳しい道程に、チャレンジもせず経験もしていない人間が、果たして本当に、進ませてあげることが出来るのでしょうか。




「安全が第一であって、敢えて新しいことなどに挑戦する必要はない」、「多少のお金と適度の仕事が有れば十分であって、可もなく不可もない、中庸の生活が最も良い」、「お金は欲しいが忙し過ぎるのは嫌だ」、「仕事は面白くないが、責任は負いたくないから、結局サラリーマンが一番良い」などと、日に日に、或いは夜な夜な、夫婦間で会話していなかったでしょうか。




人間は環境の動物と言われ、人格や価値観及び考え方や思考パターンは、幼少期から成長期にかけて、親が造り出す環境下で形成されます。

子供は、いつも親の傍らに必ず居て、親の言動を見聞きし、そして親の真似をするようになり、洗脳されてしまった脳みそから湧き出す思考パターンについても、真似をすると申しますか、そうならざるを得ないように潜在意識には、それらがすっかりと刷り込まれてしまっているのです。




物事を尋ねるのに、そのことを知らないだろうと思われる人間に、アドバイスは求めないものですが、親子に至ってしまっては、影響を排除する術はありません。

もし、そのような業が出来るのであれば、「転職?素晴らしいじゃないか、どんどん遣り給え」、という循環が始まる訳です。

旅行が何故素晴らしいかと言えば、仕事と家庭の往復や、日常の喧騒や雑踏から離れた非日常だからです。




「転職?素晴らしいじゃないか、どんどん遣り給え」と言えてしまうのも、実は、それが非日常だからであって、当たり前のことですが、非日常も、常態化すれば日常になってしまい、状況がそこまで進んでしまえば、「転職なんか当たり前じゃないか、どんどん遣り給え」、という循環が始まることになるのです。

「転職?素晴らしいじゃないか」という言葉は、削ぎ落とされるのです。




このように表現してしまえば可笑しいですが、人間に、生きるプロとかアマなどは居ません。

強いて言えば、生きている人間全員が、生きているだけでプロなのです。

そうとなれば、学生のプロ、サラリーマンのプロ、主婦(夫)のプロ、親のプロ、子供のプロ・・・世の中には様々なプロが存在することになりますが、プロと称するからには、その業界の常識とやらに染まっていなければなりません。




「染まっていなければ」と言うより、学生の常識、サラリーマンの常識、主婦(夫)の常識、親の常識、子供の常識と、様々な常識に、「染まってしまっている」と言った方が良いかもしれません。

能動的に表現すれば、学生業界の常識を知り尽くした人を、プロの学生と、サラリーマン業界の常識に長(た)けた人を、プロのサラリーマンと言うのです。




さて、その業界の常識を打ち破れば、非日常が始まる訳ですが、打ち破る人間はいつ現れるのでしょうか。

一旦打ち破ってしまえば、それがまた日常と化し、そしてまた常識に染まり、そしてまたまた、打ち破る人間が出てくる、という何世代にも渡る家族の好循環が始まるのですが。

あなたの家族の好循環の初代は、一体誰なのでしょうか、あなたなのでしょうか。




世の中を見渡せば、医者の子供は医者、政治家の子供は政治家、教師の子供は教師、サラリーマンの子供はサラリーマンと、その業界の常識を打ち破る人間が出現せず、当たり前になってしまっている2〜3世代継続の循環を、数多く確認することが出来ます。

自分自身の常識と、家族の常識に染まり切って、変化を起こしそうにない循環のことを、「良し」とし、「安定」と考える人達も、確認することが出来ます。























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