宗派:高野山真言宗
本尊:釈迦如来
創建年:天平年間(729年〜 749年)
開基:行基
正式名:竺和山 一乗院 霊山寺
札所:四国八十八カ所霊場第一番札所
本尊真言:のうまくさんまんだ ぼだなん ばく
御詠歌:霊山の 釈迦の御前に めぐりきて よろずの罪も 消えうせにけり
住所:徳島県鳴門市大麻町板東塚鼻126番地
駐車場:100台 境内に隣接
宿坊:休止中
鉄道:高徳線板東駅下車徒歩15分
自動車道:高松自動車道板野ICから約3km
1番 霊山寺 ⇒1.4km⇒
2番 極楽寺 ⇒2.6km⇒ 3番 金泉寺
見所
錦鯉
この錦鯉の数は寺の財政力が豊かなことを表すのだろう。
これから2番札所、3番札所、4番札所となるにつれだんだんと質素な山寺となっていく。
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四国八十八箇所霊場第一番札所 竺和山 一乗院 霊山寺
第1番札所
じくわさん いちじょういん りょうぜんじ
竺和山 一乗院 霊山寺
四国八十八箇所霊場第一番札所である霊山寺(りょうぜんじ)は徳島県鳴門市大麻町にある高野山真言宗の釈迦如来を本尊とする寺院である。
正式名は竺和山(じくわさん)一乗院(いちじょういん)霊山寺(りょうぜんじ)。
奈良時代、天平年間(729年〜749年)に聖武天皇の勅願により、行基によって開創されたという。
弘仁6年(815年)に空海(弘法大師)が21日間修行を行った。
その際に、弘法大師の姿が天竺(インド)の霊鷲山で釈迦如来が説法をする姿に似ていたことから天竺の霊山を日本に移したとの意味から竺和山霊山寺と名付けられたという。
京都、大阪方面から四国へ入る鳴門の撫養(むや)港に一番近かったから霊山寺を第一番札所と定めたとされている。
天正年間に長宗我部元親の兵火に焼かれ、その後再建されたが明治24年(1891年)の出火でまた本堂と多宝塔以外を消失。
多くはその後の再建である。
ある年の1月
ある年の冬は生憎の工事中。
ハトは微妙な距離感を保ってた。
発心とは思い立つこと。
四国八十八箇所霊場の一番から二十三番札所を擁する阿波の国は「発心の道場」といわれる。
であるのに、いつしか人々は思考しなくなってしまっている。
無知なるをいいことに何も考えなくなったのである。
ならば考えるがよい。
迷える日本人。
何を考えるの?
ってそんなことは自分で考えるしかない。
我らは幼き頃より、教師より減点教育法で飼いならされてきている。
物事を見、人物を評価する時の基本的な考え方は、ミスをしないこと、そして正すことにある。
自然、子どもはミスをしない大人へと育っていくのだ。
日本語でしゃべる時もミスをしてはならない。
そこが違う。
言葉の用法が違う。
いや、言葉自体間違ってる、と厳しく指摘されてきた。
もちろん英語でもミスをしてはならない。
単なるコミュニケーションの道具だと思ってもらっては困る。
それらは、一切のミスなく使わなければならないのだ。
お陰で、ミスを叱責され続けた子どもたちは、もうすっかりと自信を喪失し萎縮してしまって、日本語も英語にも興味をなくしてしまって、まったくしゃべらなくなってしまったのである。
むろん、ミスを指摘する教師なんかとは絶対に口なんかきくものか。
こうして無口で思考しなくなった大人といえば、社会においてもお互いにミスを指摘し合って傷つけ合いまったくといっていいほどつまらない人生を送ってるのだ。
このように、日本人は人類の長所であるべき創造力というものを育てることを一切せずに、さらにはその若芽を早く摘み抹殺することによってミスの撲滅をはかってきたのである。
後には、無知でバカだけどミスをしない地味な奴が生き残れる国だけが生き残った。
でもどうだろう。
無知蒙昧の日本人も、もういい加減に発心してもいい頃かと思うのだが。
ある年の9月
ある年の9月、工事は終わっていた。
平和ボケ日本でも、もはや常識となりつつある。
どなたさまも車上荒らしには十分ご用心あれ。
「納経・帖・軸・白衣・杖等は本堂にてお授けします。説明を受けてお選びください」
四国八十八カ所霊場第一番札所ということで、お遍路さんの、巡礼装束である白衣や金剛杖、菅笠、納経帳、掛け軸などの巡礼用品を揃えることができ、遍路初心者には遍路作法や心得を受けることもできる。
風格のある山門(仁王門)。
縁結び観音:
「
縁むすび観音
観世音菩薩は世の人々のあらゆる希望を観て何事もご存じでいられます。
この観音さまは縁を結びたいと願う方に特に御力添え下さる様、祈願して建立した御佛様です。
男女の縁は勿論、幸せの縁、健康への縁、希望する学校への入学の縁を・・・等々・・・に書き入れて結び水を添えてお参り下さい。 合掌
」
初七日から三十三回忌まで死者の供養に割り当てられた等身大の不動、釈迦如来、地蔵など13体が祭られている。
本堂内の天井の明りは厳かで幻想的。
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